げた箱の名前シール、習字の掲示は必要か?

新学習指導要領に盛り込まれた「主体的な学び」という言葉。2022年4月に内閣府が発表した「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ(案)」では、教員の役割が「指導書どおりに教える人」から「子どもの主体的な学びの伴走者」へ転換することが示唆されている。

しかし、実際の現場は理想にはまだ遠く、教員の疲弊という現実が残る。こうした中、「不親切な指導こそが子どもの主体性を伸ばし、教員の負担を軽減する」と語る教員がいる。千葉県の公立小学校の教員であり、『不親切教師のススメ』の著者・松尾英明氏である。

小学校に足を踏み入れると、そこは先生の“親切”でいっぱいだ。げた箱とロッカーには一人ひとりの名前のシールが貼られ、教室はクラス全員の習字の掲示、先生お手製の掲示物であふれている。休み時間には先生が全力で子どもと遊んでくれて、宿題もしっかり出すし、子どもの質問や保護者からの問い合わせにはいつでも何度でも答える──。

自身の時間や気力、体力を注ぎ込み、労力をいとわない「親切な先生」がつくり上げた学級。これを「当たり前の光景」と思った人も、「いい先生だ」と思った人もいるだろう。しかし、教員が先回りして準備してしまうことが、子どもを「お客様」にしてしまうと松尾氏は指摘する。

松尾英明(まつお・ひであき)
千葉県公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小などを経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆のほか、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話などを行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。ブログ「教師の寺子屋」主催。近著に『不親切教師のススメ』(さくら社)
(写真:松尾氏提供)

「こうした準備は非常に労力がかかりますが、子どもはしてもらって当然と思ってしまいます。また、名前が貼ってあることで持ち物や靴を隠すといった、いじめにつながることもあるのです」

これまで「当たり前」と思われていたことの中には、そもそもやる必要のないもの、むしろやめたほうがいいと思われることも多いという。

「習字の掲示なども労力がかかりますが、そもそも誰かに見せるために書いたものではありません。算数のテストは壁に張らないのに、習字はみんなが見られるように掲示する。不思議ですよね。子どもたちの競争意識が強いのはなぜだろうと考えていたのですが、子どもたちは小さい頃から序列をつけられているんですよね」

最近、世間で話題となっている背の順も、その1つだ。本人にはどうしようもない身体的特徴で、小さい子から順番に並ぶ背の順は「明らかに差別で名簿順にすべき」と松尾氏は話す。合理的な理由がないのに、これまでの学校の常識に合わせて行っている慣例は多い。

過去に松尾氏が小学校2年生を受け持った時、子どもたちに「本当は教室に何を張りたい?」と聞いてみた。返ってきた答えは、「折り紙とか、自分たちで描いた絵を張りたい」。そこで、教室の掲示物を全部剥がしてみたら、何も問題がなかったという。

「教室は子どもたちのための場所ですが、こちらの都合でやっていることも多いですよね。例えば、全員分のクリアファイルを掲示し、その中にその子の学習の様子がわかるものを入れるという学校も多いと思います。しかし、子どもたちはお互いのファイルの中身を見ていないし、興味も持っていない。それでもやめないのは、教育委員会が学校訪問した際、中身がそろっていないと指導されてしまうからといった事情もあります。このように、主権者であるはずの児童生徒の視点が入っておらず、大人の都合でやっていることも多いのです」

子どもの体験を奪う教員の「頑張り」

教員は日々、子どもたちのために頑張っている。しかし、その「親切さ」は、意図しないメッセージを発することにもなりかねないと松尾氏は指摘する。

「子どもたちは一人ひとりがいろいろな種を持っていて、伸びたがっています。それなのに先生がどんどんやってしまうと、子どもたちはやってもらって当然と感じ、受け身になってしまいます。それが先生からの『あなたたちには無理』というメッセージになってしまい、子どもに『自分には無理』という学習性無力感を植え付けてしまうのです」

松尾氏がそう考えるようになったきっかけ。それは、自身も「親切すぎる」指導をしていた頃にさかのぼる。街中にある小学校で5年生を担任した時だ。

「田んぼを作って稲を育てるという授業をやりました。水道代もかなりかかるので、プールの水を再利用したり、合鴨農法のための合鴨の世話をしたり。夏休み中も私たち教員が一生懸命管理をしていました。そうしてやっとおコメが取れた時、子どもが言ったんです。『先生、おコメを作るのって簡単だね』って。ひざから崩れ落ちるかと思いましたね。でも、考えてみれば、子どもたちがやったのは田植えと刈り取り、そしておコメを食べることだけ。そう気づいた時、『教員が苦労することで、子どもの体験を奪ってはいけないのだ』と強く感じました。子どもたちはぶつかったりしながら学んでいくもの。社会ではそれがスタンダードですから。学校も温かい空間でありながら、子どもたちが自分で問題解決をできる場にしたいのです」

松尾氏が勤務していた学校では、げた箱に名前ではなく番号シールを貼り、使用する児童が変わっても汎用的に使えるようにした
(写真:松尾氏提供)

児童の問題行動がぴたりとなくなった理由

教員が先回りしている時点で、その問いの答えは出てしまっている。予定調和を目指す学びに取り組む必要があるのか。そう考えたという。

「子ども集団には教員の教育よりも断然大きな教育力があります。そう実感した出来事がありました。トラブルを多く起こす児童を受け持った時のこと。その子を仮にAとしましょう。あまりにも悪いことばかりをするので、ほかの児童から『いい加減にしてくれ』という声が上がったほど。子どもたちだけで話し合った結果、『Aさんのいいところをもっと伝えよう』『Aさんだけでなく、みんなのいいところを言い合おう』ということになったんです。すると、その児童は問題行動をピタッとしなくなったのです。私が注意してもやめず、どうしていいかわからなかったことを、子どもたちが解決したのです」

これだけではない。どうしても縄跳びができなかった子が、友達の力を借りてできるようになったこともあったという。

「スクール型」の配置は、教員が黒板を使って一律に教える授業に適しているが、写真のような「アイランド型」は、生徒同士が顔を合わせ、話し合う学びに適している。コロナ禍で影響も受けているというが、松尾氏は「アイランド型」を積極的に採用しているという
(写真:松尾氏提供)

「教員の力ではできないことも、子ども集団の力を借りるとグッと力が上がるんです。得意なこと、苦手なことは人それぞれ。子どもたちには、『助けて力』が大事だよと言っています。教員である私も含めて誰かが『助けて』と言うと、『やるよ』と言う子が出てきます。自分の得意なことを発揮するには、それが苦手な人がいないといけない。得意・不得意はあっていいし、それが社会の構造だよ、と子どもに伝えています」

これまでの教育ではいろいろな学力やスキルを満遍なく平均的に身に付けるような指導が行われていた。その背景にあったのは、「言われたことを言われたようにミスなくできる人材」が必要とされた、高度経済成長期の社会のあり方だという。

「当時はそれが最適解だったのでしょう。しかし、今はそれぞれが得意なことに特化し、力を発揮することが求められています。制度を今すぐ変えるのは難しいですが、私は子どもや子ども集団の力を引き出すほうに注力したいと考えています。粘土で象を作るとき、鼻の形の粘土をくっつけるとすぐに取れてしまいますが、粘土を引っ張って伸ばせば取れませんよね。それと同じで、教員が親切に先回りしていろいろやってあげたり安易に正解を教えたりするのではなく、一歩引いて見守り、子どもの力を引き出す。それが私の考える『不親切教師』です。子どもの力を引き出せば教員の労力も減り、何もしなくても学級が回っていくのです」

子どもの力を引き出すと教員の残業が減る

子どもの力を引き出す不親切指導を実践する「不親切教師」。そんな松尾氏は、担任としてはかなり残業時間が少ないほうだという。

「まず、ドリルの丸つけはいっさいしません。ドリルの丸つけは、授業中に子どもが自分でチェックしています。授業中の漢字テストも、子ども同士で丸つけをします。すると、いい加減な字を書けばバツになりますから、お互いに『雑な字を書かないほうがいい』とわかるようになるのです。漢字テストの結果は私もチェックしますが、子ども同士で丸つけをすることでいろいろなことに気づくのです。計算ドリルも同様です。1年生でも子ども同士で丸つけをします。『1年生にはまだできない』と考えるのは子どもの力をなめています。『できる?』と聞くと、子どもは『できる!』と言いますし、実際にできますから。子どもには『どうしてもできない子は持っておいで』とは言いますが、ほとんどいないですね」

また、松尾氏は一律の宿題も出さないという。

「授業中に指導しているので、一律の宿題は出しません。授業内で終わらせるべき内容をやり残し、宿題にするのは残業命令のようなもの。習い事をたくさんしている子、親御さんが宿題を見てあげられない家など、子どもやご家庭によって事情は異なります。一律で宿題を出せば子どもを勉強嫌いにさせてしまいます。それでは本質からずれてしまいますよね。漢字テストで100点を取りたい子は宿題を出さなくても勉強してきますし、夏休みの自由研究をなくした時も、好きでやりたい子は自分から作ったものを持ってきました。そういうものは教室に展示します」

こうした「不親切」な指導を行ううえで大切なのは、保護者の理解を得ることだという。

「最初の懇談会で、『宿題で学力がつくわけではないし、大人の自己満足なので宿題は出しません』『先回りしてダメとは言えないので小さなケガもさせます』『必ず子どもの力をつけますから、見守ってください』と伝えて理解してもらい、見守ってもらいます。自分には信念があると伝えるのはとても大事なことだと思います」

不親切指導は単なる手抜きではない。「こうすれば成功する」というマニュアルは存在せず、そのクラスの児童生徒一人ひとりを見つめなければ、その子の力を引き出すことはできないからだ。

「A校で通用したものがB校で通用するとは限りませんし、同じ学校でもそれは同じ。クラスが変われば児童も変わりますし、一人ひとりの持つ種も異なります。『去年はこのやり方でうまくいったから』と同じことをするのはダメですね。大事なのは規則ではなく基準。自治を中心に危険なことは教えつつ、子どもとやり取りしながら任せていくことをスタンダードとしています」

運動能力の向上を目的に体育の授業で登り綱をする際は、下にマットを敷いて「落ちたら危ない」「ケガをするのは登る時ではなく降りる時(摩擦によるやけどが多いため)」と伝えておく。子どもたちは自身で高さに慣れるとともに自分の腕力ならどのくらい登れるか、どこで引き返すべきか考えるようになり、結果的に安全に登れるようになるという
(写真:松尾氏提供)

書籍やメールマガジンを通して、「不親切指導」を世の中に投げかける松尾氏。その背景にあるのは、教員が置かれた状況の厳しさと、それを改善したいという思いだ。

「教員はまじめな人が多く、ある意味我慢強すぎるのです。頑張れば頑張るほど、それがスタンダードになってしまい、周りの人を苦しめてしまう。現場は通常の業務に加えてICT導入とコロナ対応ですでに過積載状態。社会に対し、『無理なことは無理だと言おう』『子どもの力を引き出すほうにシフトしよう』と訴えかけたいんです。同じようなことを考えている人はきっと周りにいるはず。まずは同じ学校の中で仲間を探してほしいですね」

不親切という強い言葉に込められた思い。それは、子どもの力を伸ばし、教員の負担を軽くしようというもの。それこそが、長い目で見れば、本当の意味での「親切」になるはずだ。

(文:吉田渓、注記のない写真:ペイレスイメージズ1(モデル) / PIXTA)