図工や美術の教科に限った話ではない、「アート思考」が生きる力を育む訳 「表現の花」より「探究の根」を重視した評価を
「表現の花」にとらわれず自由に「探究の根」を伸ばそう
末永氏は成果として表出するアート作品を「表現の花」と呼ぶ。それに対し、作品が生み出されるまでの過程を「探究の根」と例える。「水の表現技法」の例では、自分なりの水を描いた作品が「表現の花」だ。ごく普通の高校生が、これまでの傑作を超えるような表現技法を生み出すことはできないかもしれない。「表現の花」は美術史上では、すでに存在する凡庸なものになるかもしれない。だが生徒が自分史上において新発見を体験したという過程、つまり「探究の根」にこそ意味がある。
そう理解できれば、アート思考は一気に美術科目だけの話ではなくなる。ほかの科目でも、「表現の花」はテストの点数など見えやすい結果、「探究の根」は見えない努力や試行錯誤だと言い換えることができるだろう。すると、旧来の美術科目の問題点もよく見えてくる。
昨今の多様な社会課題になぞらえるまでもなく、多くの美術作品には「正解」がないはずだ。だがそうした場面でも、日本の量産型教育では、見えやすい「花」を評価基準にしてきた。ひょっとすると、それが美術嫌いの子どもを増やし、ひいては「自分なりのものの見方をつくる」作業をも苦手にさせたかもしれない。
末永氏の考える「アート思考」は、意識し続けなければ深められない。自身も、とくに理由もなく、自分のものの見方を失いかけたことがあると語る。
「美術教員になったばかりの頃は、小さな違和感をたくさん抱いて働いていました。その感覚は私にとって重要なものだったはずなのに、いつの間にか、私はその違和感を捨てていたのです。『私の答え』だと思ってしていたことも、振り返ればどこかで読んだり学んだりしたことをそのまま行っていただけ。それに気がついたのは、学び直そうと退職して大学院に入ってからでした」
アート思考に欠かせないものとして、さらに末永氏が挙げるのは「疑う力」だ。これまで常識とされてきたこと、意識したことのなかったものを疑うことで、自分なりの答えを獲得することができると考えているからだ。
「現在は教員を目指す大学生の指導もしているのですが、その名も『ありえない授業』という授業を行っています。学生には、たとえ教育現場では『ありえない(あってはならない)』とされるような授業であっても、この場では自由に発想して授業案を出してもいいと言っています。目的はそこから教育について自分の頭で考え、問うことだからです。しかし、実際にはそうそう『ありえない』案は出てきません。一時は『もっと面白いことをしてもいいのに』と思っていました」
だがあるとき、家に帰ってから「あ」と気づいたという。
「私にとって面白い『花』を、授業の目的にしてしまっているんだなと思ったのです。そうではなく学生にとっての試行錯誤の体験を、つまり『根』をしっかり見ていくべきだと考えを変えました。以来、授業やワークショップを振り返るときは、つねに自分を疑うようにしています」
子どもが「当たり前に思っていたものの面白さ」に気づく
近年取り組んでいる美術館でのワークショップでも、参加者の疑う力がついていくのを実感している。ワークショップの手順は次のようなものだ。
まず参加者はじっくりと美術作品を鑑賞する。自分のものの見方で作品を見つめるために、予備知識は入れない。そのうえで感じたこと、気づいたことを、1時間以上かけてなるべくたくさん書き出す。この「たくさん」というのもポイントだ。