科目を限定せず、探究学習の一環としてアートに取り組む
末永幸歩氏は、美術教員の経験を生かした活動を精力的に行うアーティストであり、美術教育の研究者でもある。アートワークショップや講演の対象は、大人から子ども、教員から一般人までと幅広い。
もし、今「美術科の話は自分には関係ない」と考えた人がいるなら、少し待ってほしい。末永氏は、著書でも強調する「アート思考」の重要性について、「図工や美術の教科に限った話ではない」と断言する。
「本当のアートとはそもそも何でしょうか。それは答えがないものと向き合い、自分なりのものの見方をつくり、自らの答えを考えることです。これは現代で求められる生きる力そのもの。探究学習の一環として、教科の垣根を取り払って臨むべきだと思います」
社会のゴールや正解がはっきりしていた時代は、STEM教育の知識で事足りた。だがそれだけでは立ち行かなくなった現代では、「自分なりのものの見方をつくる」ためのアートの発想が不可欠だ。末永氏は「STEAM教育の5つの分野を横断して考える際にも、アート思考が有効」だと続ける。
例えば、高校の美術科目で「水の表現」という単元があるとしよう。教科書には、水を描いた過去の作品がいくつも紹介されている。そこから選んだ作品をまねた絵を描くだけでは、「過去のアーティストの技法を表面的に追体験するにすぎない」と末永氏は指摘する。
「まずは『水』に意識を向けてみること。とても身近なもののはずなのに、それについてあまり考えたことがないと気づくのではないでしょうか。そしてルネサンスの作品なら科学的知識に基づいて水を見ているとか、印象派の作品なら純粋にその目に映るものを重視しているとか、アーティストのものの見方を想像してみる。同じ『水』を見ていても、多様な見方があると実感できるはずです。さらに『じゃあ、私ならどう見る?』と考えて、自分なりの見方をつくることがその単元の最も重要な部分なのです」
「表現の花」にとらわれず自由に「探究の根」を伸ばそう
末永氏は成果として表出するアート作品を「表現の花」と呼ぶ。それに対し、作品が生み出されるまでの過程を「探究の根」と例える。「水の表現技法」の例では、自分なりの水を描いた作品が「表現の花」だ。ごく普通の高校生が、これまでの傑作を超えるような表現技法を生み出すことはできないかもしれない。「表現の花」は美術史上では、すでに存在する凡庸なものになるかもしれない。だが生徒が自分史上において新発見を体験したという過程、つまり「探究の根」にこそ意味がある。
そう理解できれば、アート思考は一気に美術科目だけの話ではなくなる。ほかの科目でも、「表現の花」はテストの点数など見えやすい結果、「探究の根」は見えない努力や試行錯誤だと言い換えることができるだろう。すると、旧来の美術科目の問題点もよく見えてくる。
昨今の多様な社会課題になぞらえるまでもなく、多くの美術作品には「正解」がないはずだ。だがそうした場面でも、日本の量産型教育では、見えやすい「花」を評価基準にしてきた。ひょっとすると、それが美術嫌いの子どもを増やし、ひいては「自分なりのものの見方をつくる」作業をも苦手にさせたかもしれない。
末永氏の考える「アート思考」は、意識し続けなければ深められない。自身も、とくに理由もなく、自分のものの見方を失いかけたことがあると語る。
「美術教員になったばかりの頃は、小さな違和感をたくさん抱いて働いていました。その感覚は私にとって重要なものだったはずなのに、いつの間にか、私はその違和感を捨てていたのです。『私の答え』だと思ってしていたことも、振り返ればどこかで読んだり学んだりしたことをそのまま行っていただけ。それに気がついたのは、学び直そうと退職して大学院に入ってからでした」
アート思考に欠かせないものとして、さらに末永氏が挙げるのは「疑う力」だ。これまで常識とされてきたこと、意識したことのなかったものを疑うことで、自分なりの答えを獲得することができると考えているからだ。
「現在は教員を目指す大学生の指導もしているのですが、その名も『ありえない授業』という授業を行っています。学生には、たとえ教育現場では『ありえない(あってはならない)』とされるような授業であっても、この場では自由に発想して授業案を出してもいいと言っています。目的はそこから教育について自分の頭で考え、問うことだからです。しかし、実際にはそうそう『ありえない』案は出てきません。一時は『もっと面白いことをしてもいいのに』と思っていました」
だがあるとき、家に帰ってから「あ」と気づいたという。
「私にとって面白い『花』を、授業の目的にしてしまっているんだなと思ったのです。そうではなく学生にとっての試行錯誤の体験を、つまり『根』をしっかり見ていくべきだと考えを変えました。以来、授業やワークショップを振り返るときは、つねに自分を疑うようにしています」
子どもが「当たり前に思っていたものの面白さ」に気づく
近年取り組んでいる美術館でのワークショップでも、参加者の疑う力がついていくのを実感している。ワークショップの手順は次のようなものだ。
まず参加者はじっくりと美術作品を鑑賞する。自分のものの見方で作品を見つめるために、予備知識は入れない。そのうえで感じたこと、気づいたことを、1時間以上かけてなるべくたくさん書き出す。この「たくさん」というのもポイントだ。
「鑑賞し始めのときに書いたことは、思い込みだったり表面的なことだったりします。でも時間を使って数多くのことを書き出すと見方が変わってきたり、とくに後半のほうに『自分らしさ』が表れてきたりします」
つまりこの作業では、自分のものの見方を、時間差によって自ら疑うことになるのだ。
そして鑑賞によって芽生えた「想い」を、今度は廃材を用いた工作で表現する。廃材を用いるのは、見栄えを追求することが目的ではないからだ。また、必ずしも望みどおりの材料があるとは限らないので、「ではどうするか」と表現に工夫や広がりが出るという。
「アート作品を鑑賞する際の大前提として、参加者には『作品とのやり取り』を重視するよう伝えます。アーティストが考えたり手を動かしたりして作品を作っているのと同様に、鑑賞者も作品を見たり想像したりすることで一緒に作品を作っているのです。そこに正解はないし、アーティストとまったく違うことを考えてもいい。積極的に誤読をしていい、どんどん勝手に解釈していいのだと話しています」
間違っているという批判も、「花」の出来による値踏みもここではされない。末永氏のこうした言葉によって、参加者は伸び伸びと作品を味わい、表現することができる。多様性を認め合うことを実感し、それぞれの価値観を変化させる貴重な機会にもなるだろう。
「単に私が話をするだけの講演会では、受け手は知識をインストールされるのみで終わってしまいます。体験が伴うワークショップだからこそ、参加者それぞれのものの見方、疑う力がより高められるのだと思います」
ワークショップの参加者から「当たり前だと思っていたものの面白さや不思議さに気づいた」という感想も寄せられ、末永氏は手応えを感じている。だがこうしたチャンスは、特別なイベントだけにあるのではない。日々子どもたちと共にさまざまな体験をし、しかも一定期間を継続的に指導することができるのは、現場の教員の大きなアドバンテージだと末永氏は語った。
(文:鈴木絢子、注記のない写真:つむぎ / PIXTA)