オックスフォード大・苅谷剛彦、海外大学と後発の「日本の大学」との決定的な差 抽象的な議論に終始「日本の教育と社会」の課題

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今後少子化がますます進行していく中で、日本の大学はコストをかけずに変革しなければならない状況にあります。教員にしてもコアの部分は常勤講師だとしても、それ以外は非常勤講師に頼らざるをえない。また、数年前から文部科学省が「スーパーグローバル大学創成支援事業」を行っていますが、現状成果が出ているとは言いがたいですし、なぜ成果が出ないのかも検証されていません。

支援事業を始めるときには、英語授業、留学生、外国人教員の充実を問うていましたが、実際には今の日本の大学の財政力で世界的なトップ大学からトップ人材を招聘することなんてできませんし、留学生もトップクラスは日本にはやってこないのです。そうすると日本の大学の強みとは何かということを、もう一度足元から見直す必要があるのです。

――日本の強みとは何でしょうか。

日本は非常にユニークな歴史を持っています。よく言われるように非西洋圏で最初に近代化した国ですが、第2次世界大戦で敗退し、完全に国を滅ぼした経験を持っています。1回目の近代化の失敗が被爆国という末路を招いたのです。そして、戦後は米国の占領の下、2回目の近代化を行いました。それは平和で民主化な国家を目指すものでしたが、結果、科学技術立国を目指し、ものづくりを通じて経済成長を手に入れました。

80年代まで日本では欧米に比べ雇用者の高学歴化が一足早く進んだ一方、労働コストは安く、品質の高い製品を安く売ることができました。日本人がグローバル化していなくても、高品質低価格の製品によってグローバル競争に勝つことができたのです。当時、日本人は海外から「エコノミックアニマル」と言われましたが、それは日本人のセールス力が強かったわけでは必ずしもなく、製品力が強かったからなのです。

しかし、その後、バブル崩壊を迎え、失われた30年に突入。あげく海外からは長期低迷することを「ジャパナイゼーション(日本化)」と言われるようになりました。しかも、その間、私たちは大地震や災害をはじめとして、多くの困難な災厄を経験しました。これら日本の歴史は見方を変えれば、日本は近代社会の問題が詰まった縮図の国だとも言えます。しかも日本人は、そうした経験を丁寧に書き残してきました。

私は日本語で書かれた経験の集積は“日本の知”だと思っています。世界の国々がこれからの行く末を考えるうえで、日本の知は人類の宝庫になりうるのです。私たちが悩み切った人たちから個人的に学びを得るのと同じように、世界の人たちにとっても日本の知は学びの宝庫になる。それが日本の強みになると私は考えています。

つまり、日本が世界に発するリソースは、歴史から蓄積された日本の知にあると思うのです。それを足がかりにして日本の個性をアピールするほうが、表層的に授業の英語化を推進するよりも、よほど地に足が着いている。それが帰納法的な考え方にもつながっていくと思っています。

もっと言えば、日本の知を多様な人材によって複数の視点から見ることで、自分たちの姿を捉え直してアピールしていけばいい。今はAIの進展によって自動翻訳機能も高性能化しており、必ずしも日本語だからといって世界にアピールできないわけではありません。日本語で積み上げてきた知識をどのように世界で活用してもらうのか。そこにこそ、日本の大学がやれる余地が大いに残っているのです。

(文:國貞文隆、注記のない写真:Gettyimages)

東洋経済education × ICT編集部

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小学校・中学校・高校・大学等の学校教育に関するニュースや課題のほか連載などを通じて教育現場の今をわかりやすくお伝えします。

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