オックスフォード大・苅谷剛彦、海外大学と後発の「日本の大学」との決定的な差 抽象的な議論に終始「日本の教育と社会」の課題
帰納的な考え方ができない「エセ演繹型思考」の問題点
――予測可能な事態にも対応できない原因は、どこにあるとお考えでしょうか。
日本は、その知識を生み出した社会の文脈を離れて、いつも抽象的な議論に終始しがちです。私はそれを「エセ演繹(えんえき)型思考」と名付けているのですが、日本は近代以降、つねに海外から新たな知識を受け入れてきたために、最初に知識を取り入れるときに、その知識を生み出した社会の文脈を離れて、抽象的なものとして取り入れ、それを演繹的に理解することをやってきました。そのため、日本はどうしても演繹法の考え方をしてしまいがちです。
しかし、現実はどうなのか。過去はどうであったのか。そのときどんな対応ができたのか。現実的な側面から、私たちはどんな能力を発揮してきたのか。そうやって帰納的に考えることが必要です。
現実的に何が問題なのかを明らかにしておかないと、演繹的に考えても何も解決策は生まれません。コロナ禍の問題も同様です。濃厚接触者の定義もあいまいですし、本当に科学的なのかどうか過去にさかのぼって検証することもほとんどない。反省も検証もしているようで、していない。そこが大きな問題なのです。
・演繹型思考:抽象的な理想や理論、概念からの推論
・帰納型思考:事実の積み上げによる判断
――日本人は帰納的な思考をすることが苦手なのでしょうか。
それは日本の教育が育てようとする個々の人間の資質や能力の問題なのか。あるいは、必要な資質や能力を持っている人間がいたとしても、それが発揮できない組織や制度の問題なのか。そこを区別しなければ、いくら教育の問題として議論しようとしても無理があります。
しかし、そう言うとどうしてもけむたがられてしまう。日本では異質の意見を持つことは、とても勇気のいることです。私は日本では組織のあり方を変えない限り、いくら必要な資質や能力を持つ人間がいたとしても、それを発揮できないと考えています。
まさに、そうした組織の問題を帰納的に考え、どこに問題があるのか。実態から掘り起こしていかない限り、解決できません。得てして、教育の論議は、地に足の着かない空中戦になりがちです。もし資質や能力を持っている人がいても、それを受け入れ、そうした資質や能力を発揮する機会の豊富な組織や風土がなければ何も変わっていかない。学校だけでは解決できない問題なのです。
今、日本では演繹型思考がもっと単純化して、白黒の議論になっているような気がします。コロナ禍によって、異質を排除する議論が強くなっているようであり、むしろ学生は自分の意見を表明しないほうがいいと考えてしまう。それは今の教育で必要とされる主体的・対話的で深い学びとはまったく逆の方向に向かっているように見えます。
――帰納的に考えるためには、どうすればいいのでしょうか。
帰納的に考える際、よい教材となるものは過去です。過去は予測困難な時代を通り抜けた結果です。私たちが現実をどう観察し、過去をどのように理解していくのかが重要になります。
そのための方法論を学ぶという点において、過去の事例を学んだり、文学やノンフィクションを追体験的に読んだりすることも有効かもしれません。教える側も、そういう狙いや意図を持って学生に読ませなければなりませんが、そうなっていないと思っています。
日本の大学は生き残ることができるのか
――こうした中で“知の生産”を担う大学は、これからどのように変わっていくべきでしょうか。
日本の大学では、大教室で多数の学生に向けて授業をするスタイルが中心となっています。それは歴史的に海外から知識を輸入してきたこと、そしてコストをかけずに学生の数を増やすということをやってきたからです。日本の大学生のおよそ4分の3は私立大学に在籍しています。しかし、財政基盤の強い大学は限られており、授業料収入に頼らざるをえない。コストパフォーマンスを高めるためには、どうしても大人数の講義型の授業が1つの合理的な解決策となってしまうのです。
日本の大学生は週平均12~13コマの授業を受け、その半分以上が講義型となっており、大学・学部によっては卒業論文を必要としないところも増えています。そうすると、知識を受容するという点では幅広く効率的な授業が行われますが、反面、学習に対する負荷はどうしても小さくならざるをえなくなります。これらを変えようとしても、今のカリキュラムや教員組織の構造、財政的な基盤の問題などが複雑に絡み合って、すぐに変革することは難しくなります。