オックスフォード大・苅谷剛彦、海外大学と後発の「日本の大学」との決定的な差 抽象的な議論に終始「日本の教育と社会」の課題

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日本の大学では大人数の講義型の授業が中心

――海外では、どのような授業を行っているのでしょうか。

米国や英国の大学の授業では、学生にかなりの分量の文献を読ませ、書かせて、議論させることを行っています。そこが日本の大学は非常に弱いと感じています。問題に対処するための方法論も学んでいないため、帰納だ、演繹だ、ということが何であるのかも身近に感じることができないし、理解できないのです。

大学でしかできない“知の生産”を追体験するには、知というものがどうやって出来上がっていくのかを読みこなしていかないといけません。教授から話を聞いたというだけでは追体験にはならない。学生自身が自分で考え、再現しなければ、知の生産には到達できないのです。その意味で、読み、書き、議論することは米国や英国の有力大学の授業の基本だと言えます。それが日本の有力大学では、その必要性がわかっていてもなかなかできないのです。

確かに日本の大学でも新たな取り組みは行われていますが、それでも米国と英国の大学に比べて、学習の負荷が少ない。ポテンシャルのある学生たちの能力をさらに伸ばすことができていません。

――大学改革が叫ばれて久しいですが、なぜ日本の大学はなかなか変革できないのでしょうか。

日本の大学は、米国や英国の大学に対して後発となります。もし本当に変革しようと思えば、桁違いのコストがかかるでしょう。今の状態のままで新しい施策を行っても、形骸化するだけです。実際、大学の先生たちの多くが“改革疲れ”というような状態に陥っています。財政面の充実と時間的余裕、人的資源がなければどんな理想を掲げても絵に描いた餅になるだけです。教育の現場では、求められるものがどんどん多くなっているにもかかわらず、それに見合う資源が投入されていない。その中で改革論議だけが先行しているのです。

――コロナ禍で、日本の大学でもリモート授業が浸透しましたが、大学改革を促すものになるでしょうか。

オックスフォードのように英語で授業を行っている海外の大学では、大きなメリットが生まれています。今までは旅費を出して、わざわざ講義に来てもらっていた先生たちがリモートで授業や講演ができるようになり、北米や欧州、日本やアジアからも参加できるようになりました。私にしても日本の大学から講義を頼まれれば、リモートで行えるようになったことは大きいと思います。日本の大学でもやろうと思えば、海外の人的資源を活用することができるはずです。留学生についても同様にリモートの効果は少なくないでしょう。

ただ、リモート授業は先ほど言った大教室でのレクチャーと同じことになってしまう可能性があります。リモートでも議論するためには、やはり人数的な制約が出てしまう。そこにはカリキュラムの問題も横たわっているのです。

――同時にカリキュラムも変えていかなければならないわけですね。

これは本当に難しいことです。学生に学習の負荷をより与えていくには週の授業のコマ数を減らすしかありません。例えば、1つの授業を複数回に分けてやることも1つでしょう。そして、先生たちがどれくらい授業の負担をマネジメントできるのか。これは教員組織の問題とも直結します。もしカリキュラムを本当に変えていくとすれば、そのポイントとなるのは、非常勤講師を巻き込めるかどうかにあります。

財政的に厳しい大学が多い中、非常勤講師に授業を依存する大学が増加していますが、今の大学の規模で少人数教育を推進するには、非常勤講師をはじめとして先生の数を増やすしかありません。大学院生にティーチングアシスタントを担当させることもできますが、大学院生を擁する大学が限られている現状では、全体的な解決策にはなりえません。今からすぐに米国型や英国型の大学に変わろうとしても、土壌が違うわけで、後発である日本の大学では非常に難しい側面があるのです。

――日本の大学は、生き残ることができるでしょうか。

苅谷剛彦(かりや・たけひこ)
オックスフォード大学 教授
1955年生まれ。米ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、博士(社会学)。東京大学大学院教育学研究科助教授、同教授を経て2008年から現職。著書に『階層化日本と教育危機』『増補 教育の世紀:大衆教育社会の源流』『追いついた近代 消えた近代』など
(撮影:尾形文繁)
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