コロナ禍で学習履歴データの蓄積量が急増
九州大学は、2013年度からBYOD(Bring Your Own Device)を始めている。これは当時、国立総合大学初の試みで、14年度には「M2B(みつば)学習支援システム(以下、M2B)」というLMS(ラーニング・マネジメント・システム)も導入。さらに16年には日本の大学で初めて教育ビッグデータの蓄積と分析を行う「LAC(ラーニングアナリティクスセンター)」を設置し、M2Bの管理・運用を開始した。狙いは、データ分析を活用した教育改善だ。
同大学の学生数は約1万9000人、教職員数は約8000人にも上る。データ収集は同意を得たうえで行っているが、これまでM2Bを講義で活用するのは一部の熱心な教員で、学内の全員がM2Bを利用してきたわけではない。
しかし、20年度に新型コロナウイルス感染拡大防止のため遠隔授業を基本としたことから「一気にM2Bの利用が広がり、蓄積される教育・学習履歴データの量も格段に増えました」と、同大学理事・副学長の谷口倫一郎氏は言う。
M2Bは、「Moodle」「Mahara」「BookQ」という3つのシステムで構成されている。Moodleは、主に出欠管理や課題提出、小テスト、アンケートなどが実施できるe ラーニングシステム。Maharaは、学生の学習の日誌を記録するeポートフォリオシステムだ。BookQはデジタル教材配信システムで、デジタル教科書や資料の共有ができるほか、学生はメモやアンダーラインなどの書き込みができる。
20年7月現在でM2B利用授業数はMoodleが3632コース、Maharaは388コース、BookQは619コース。およそ半年前の19年12月に比べ約1.7〜2.5倍も増加した。その後さらに伸び、20年12月現在では、それぞれ5526コース、1584コース、3126コースとなっている。こうしたM2Bを通じた教育データの収集・分析の成果について、谷口氏はこう語る。
「教員は、講義中の学生たちの教材閲覧箇所や閲覧スピードなどを分析でき、学生が授業についてきているかなどがわかります。学生の書き込み内容から、リアルな学び方も可視化できる。教員はこうしたデータをヒントに、教え方の改善や学生の理解度に応じた課題設定、評価などが可能になりました。
とくに対面授業は学生たちの顔つきで理解度を推測できますが、オンライン授業だと難しい。しかし、データの活用で客観的に学生たちの状況を俯瞰できるようになったのです。今後はどんな授業にオンラインが向いているかなどもわかってくるはずで、教育の質の向上にもつながっていくでしょう」
喫緊の課題は「情報の一元化」
うれしい副産物もあった。LMSの利用者が急増したことで、LACにシステムに関する問い合わせが殺到してパンクしてしまったのだが、ある教員が「iQ Lab」という学生参加型の産学連携プロジェクトチームに相談したところ、学内の有志の学生が文理を問わず集まり「quickQ」と呼ばれるサポート体制を整えてくれたという。
「現在はチャットボットの活用で人的負担が減りつつありますが、当初は約30人程度の本学の学生がサポートに当たっていました。LACもサポートが必要な教員や学生も大助かり。サポート担当の学生も大学運営がよい学びの経験になるほか、有償ボランティアのため活動が経済的な一助にもなっている。これからは大学運営に学生を巻き込むことが重要だと考えていたため、非常によい事例を生むことができました」
一方、シラバスや履修情報など学務系のシステムがM2Bと十分連携できていないため、情報の一元化は喫緊の課題だという。全学で各種教育データをひも付けする仕組みを構築すべく、新たなLACを設置する予定だ。「情報の一元化が実現できれば、学生は自身の強みや弱みがより把握できるようになるでしょう」と、谷口氏。また、データを次の講義に生かす段階からもう一歩進み、講義中に学生の様子を分析して講義をコントロールしていく「リアルタイムフィードバック」の仕組みを確立したいという。
「オンラインゆえのトラブルへの即時対応や、講義中に質問を投げても気づいてもらえないなどのコミュニケーション部分も改善の必要がある。教員と学生の世代間、あるいは学生間におけるICTリテラシーのギャップへの対応、そして合理的配慮の必要な学生へのアプローチなども課題です」
コロナの収束が見えないことから、21年度もオンライン中心のスタイルにいつでもシフトできるよう授業を計画しているといい、引き続き大量のデータが蓄積されていきそうだ。
今が世界のトップに立てるチャンス
では、同大学以外の教育現場の状況はどうか。同大学の教育データ活用を推進した名誉教授の安浦寛人氏は次のように見ている。
「日本の主な大学はオンラインを活用して、コロナ禍でも教育を止めなかったという実績を作りました。各国が教育データの利活用を一斉に開始した20年、少なくとも日本はスタートダッシュで後れを取ったわけではないので、今後やり方次第では世界のトップに立てる可能性もあります。そのつもりで国には教育データの利活用に取り組んでほしいし、各大学にもその基盤となるLMSなどの導入を積極的に進めてほしいですね。
オンライン授業の拡大により、どの大学も教育データを集めやすい環境になった今がチャンス。デジタル化をしない大学は生存競争に敗れて自然淘汰されてしまうという危機感を持つべきです」
安浦氏は、保育園・幼稚園から初等・中等・高等教育、さらには社会人教育まで一貫した学習履歴をデータベース化し、それを社会システムとして活用していく将来像を1つのゴールとして描いている。
例えば就職活動では、自分のデータベースから任意のデータを取り出して履歴書を組み立てることが可能となり、企業も詐称のない学歴を把握することができる。入試も科目試験の一発勝負で決まるのではなく、「短期集中で成果を出すタイプ」といった特性や日頃の学び方を志望校に伝えることができ、学校もよりマッチした人材を選ぶことができる。
また、教員の経験と勘、教員との相性といったあいまいな要素に左右されがちだった教育に科学的エビデンスが持ち込まれることで、公正に個別最適な学びが実現できるようになるという。教育体系や入試のあり方も科学的分析に基づく議論が進み、今後の学習指導要領改訂における政策決定の根拠になるなど、「社会的メリットは非常に大きい」と安浦氏は話す。
エビデンスを示し社会的コンセンサスを
学習履歴データベースの活用はすでに民間分野で進んでおり、安浦氏は「履修データセンター」という会社の例を挙げる。同社は、独自のシステムを使い、新卒採用の求人に応募してきた学生の履修履歴を閲覧できるサービスなどを企業に提供している。
「面白いのが、学生たちの履修履歴をデータベース化し、大学の各講義の成績分布もわかるようにしている点。これにより『この学生はA評価が多いが、履修しやすい講義ばかり取っている』といったことが見えてくる。応募者の成績を客観的に判断できると評判を呼び、提携企業を増やしているそうです」
こうしたことからも、社会システム基盤として学習履歴データベースを構築するには、「企業との接点が多い大学から進めていくのがいちばんスムーズでは」と、安浦氏は言う。大学で学習履歴のデータベース化が完成すれば、高大接続という流れから高校にも波及し、一気に中学校、小学校へと整備が広がっていくのではないかと考える。とはいえ、そこに至るまでには課題もある。最も大きな壁は社会のコンセンサスだ。
「マイナンバーが普及しないのは、目的とメリットが国民に明確に示されておらず、社会的コンセンサスを得られていないから。国が公共の財産として教育データを活用してよりよい社会を目指すなら、科学的エビデンスをもって学習履歴のデータベース化の有意性を説くべき。医療データと同じくセンシティブなデータなので情報漏洩による差別など懸念事項も洗い出し、プライバシー保護をルール化するなどして、社会的コンセンサスを得る努力をするべきです。
データベース構築の技術的な問題はすでにクリアしており、予算もGIGAスクール構想のように4000億円もかからず、500億円くらいでできるはず。GIGAスクール構想がうまく進むのかという心配もありますが、21年秋にはデジタル庁もできますし、教育のニューノーマル化が叫ばれる今はチャンスです」
(注記のない写真はiStock)