蓑手:それに教育改革は極論僕のエゴでもありますから、一部の児童や保護者を無理に巻き添えにするのも本意ではありませんでした。そこで、自分の責任下で行動しようと独立したんです。あと正直な話をすれば、「これだけ頑張ってもこんなものか」と、一教員としての影響力に限界を感じたのも理由ですね。

卓也:どんな部分でそう感じたんですか?
蓑手:「自由進度学習」の導入やオンライン授業の整備です。コロナ禍での一斉休校期間、僕は毎日オンライン授業をしていました。児童同士の交流の場も整備して、休校開始の翌日には体制を整えましたが、ほかの公立小学校にはまったく広がらなかった。僕も教育界隈での知名度はそれなりにあったのですが、公立小学校を内から改革する道のりは果てしなく長い気がしました。ただ、決して改革自体を諦めたわけではありません。公立小学校の教員たちとは引き続き交流を持ち、外から教育の逆輸入をしていきます。
「平等主義」を突き詰めた公立小学校の末路
卓也:その話、なぜ、広まるべきものが広まらないんでしょうね。想像するに原因は「保守的思考」と「主体性の欠如」なのかな。公立の立場では従来の教育体制を無視できないし、先生的にも「自分の負担を増やしてまで挑戦はしたくない」……どうでしょうか。
蓑手:まさにそのとおりだと思います。公立学校は平等主義なんですよね。昔、ある保護者に「私はこの学校を選んだのではなく、学区内だから通わせているだけなので、普通の教育をしてください」と言われ、それもそうかと妙にスッキリしてしまって。私立でない以上、学区による差を生むわけにはいきませんから、どの学校のどの先生も同じ授業をしなければならない。逆に言えば、公立では誰もが再現できる授業しかできないのです。優秀な先生には力をセーブしてもらわないといけませんので、これでは主体性も創造性も失われますよね。
ただ面白いことに、前年踏襲だけはどんなに負担が大きくてもやります。どんなに面倒でも、昨年やったことには反論が出ないんです。「変わらないこと」がいちばん安全でリスクがないとしてきた結果、日本の教育は150年間踏襲され続け、今でもほとんど変わっていません。
卓也:まさか、公立学校はこのまま一生変わらない……? 日本以外の学校はどうしてきたんでしょう。

蓑手:実はこれ、選択肢さえあれば解決する問題なんです。海外の教育は多様性に寛容です。学校に行くか行かないか、教室で学ぶか野外で学ぶか、何を教材にするか――。それに対して、日本の教育には選べる部分が少ない、これが大きな違いです。
ただ、最近は希望もあります。まだまだ少数ですが、公立小学校で自由進度学習を取り入れる事例や、児童自身に学習内容を選択させる事例が出始めたんです。コロナ禍で児童全員が「登校したくても学校に行けない」状況に陥ったことで、例えばオンライン参加を出席扱いとして認めるなど、これまでの固定観念は一気に崩れました。
よく考えれば、不登校の児童はこれまでもずっと「登校したくても学校に行けない」状況だったわけで、そこに対応できなかった事情が今回は一瞬で取り払われたのです。いま、教育委員会も把握しきれない各所で例外が発生していることは確かです。
卓也:ある意味、コロナ禍は突破口になるかもしれないですね。登校を強制できない中で、各家庭や児童それぞれの学び方を認めざるをえない風潮を利用すると。
蓑手:はい。基本的に文科省は、世界の動向や今後行うべき教育をよく理解しています。今の日本の教育では、世界に求められている力が育めないという問題意識もちゃんと持っているので、国は新しい教育への改革に肯定的なんです。でも、圧倒的な世論と、学校現場を含む公教育業界などの抵抗勢力があまりに強力で、実際の改革にはかなり時間がかかっています。
日本の教育の発展を妨げる「抵抗勢力」の謎
卓也:マジでその抵抗勢力って誰なんですか? どう考えても、その人たちが日本の発展を妨げているようにしか思えないんですが。
蓑手:そうなんです。でもね、僕らのような親世代を含め、事実、日本人はずっと今の学校教育を受けてきたんです。今のスタイルが当たり前で、疑いようもなかったと思います。以前、このサイトで私が書かせていただいた記事に対するコメントを周りに止められながら読んだのですが(笑)。