記事の目次
「そんなことも知らないの?」が生まれる悲しい背景
なぜ誰も「数学を学ぶ本当の訳」を教えてくれないのか
「平等主義」を突き詰めた公立小学校の末路
日本の教育の発展を妨げる「抵抗勢力」の謎

「そんなことも知らないの?」が生まれる悲しい背景

(左)ヒロック初等部校長 蓑手章吾氏 (右)土佐兄弟・卓也

土佐兄弟・卓也(以下、卓也):僕、先生には親を代表して言いたいことや聞きたいことがたくさんあるので、どんどん斬り込ませてもらいます!

ヒロック初等部 校長・蓑手 章吾(以下、蓑手):ええ、忖度せず何でも答えますよ(笑)、よろしくお願いします。僕は大学卒業後、14年間公立小学校で教員をしていました。昨年3月に3校目を辞職し、現在は「ヒロック初等部」という、文部科学省が定めた教育方針とは異なる独自の教育を施すオルタナティブスクールを立ち上げて校長を務めています。

卓也:14年間で3校というと、それぞれの学校に約5年間勤務されたんですね。正直、ずっと同じ学校にいたほうがスムーズな気もしますが、なぜ異動されたんですか?

蓑手:東京都の公立の場合、1つの小学校には最長6年間しかいられないんです。公立は学校間に均一性が求められますから、教員が学校を回ることで各学校の文化を全体に波及させましょう、というのが表向きの理由ですね。でもぶっちゃけ、異動がないほうがめちゃくちゃスムーズです(笑)。とくにつらいのが、同僚や子どもたち、そして保護者と一から信頼関係を築き直すこと。公立の教員にとって異動は当たり前ですが、それでもやりづらいです。

卓也:イメージですが、教育現場って「これはこういうもの」という決まりが多すぎません?例えば「掛け算を教えるのは2年生」とか「3年生に星の動きは教えない」とかは、目の前の子どもの理解度をよそに決まりが先行している気がします。娘の幼稚園では、親の間で「〇〇ちゃんはカタカナが読めるらしい」「〇〇君はもう足し算ができるらしい」といったことが話題になるんです。この先、わが子が挫折感や劣等感を味わうのではと不安な親も多いと思うのですが、児童ごとに適した方法や進度で教育を提供することはできないんでしょうか?

早速、教育業界に斬り込んでいく卓也

蓑手:一人ひとりに寄り添った教育は、基本的に今の公立小学校では難しいと思います。GIGAスクール構想や1人1台端末が進められているとはいえ、ノウハウの蓄積はいまだ不十分なのが現状でしょう。逆に言えば、カリキュラムが決まっている限り「今年の新入生はカタカナまで書けるから子が多いからひらがなは飛ばそう」ともなりません。そのため、幼稚園から早めに勉強していた子もまた一から学ばければならない。当然、つまらないですよね。すると、彼らを満たすのは知的好奇心ではなく、「俺それ知ってるよ!」「お前そんなことも知らないの?」という優越感になってしまうんですね。

卓也:言ってしまえば、彼らにとって授業は無駄な時間になっているんですね。だからといって学力でクラスを分けるのも違うような……。どうにかできないんですか?

蓑手:僕が注目して実践してきたのが「自由進度学習」です。簡単にいうと、例えば、小6の教室内で小2の掛け算に戻って学んでいる子もいれば、その横で高2や高3の数学に取り組む子もいる、という学習スタイルです。実際に取り入れる学校も増えていて、近年は1人1台端末の普及もありさらに実践しやすくなってきました。しかし、教員の中には「個別では授業の意味がない」「深い理解につながらない」と難色を示す人も多いです。われわれ教員は一斉授業に向けて腕を磨いてきたわけで、そこを否定されると存在自体を否定された気になるのも仕方ないかもしれません。

いま、教員の存在意義にも転機が訪れている

卓也:それなら先生方には、学習に遅れた子が挫折しないようにケアをしてほしいですね。個人的に、学習面のフォローよりも心理面のフォローが大切だと思うのですが、学校現場にもこうした認識はありますか。

蓑手:例えば、相対評価が絶対評価に変わった背景にはそうした問題意識もあったと思います。それこそ相対評価では、幼稚園でカタカナを勉強しなかった子は全員Cになりかねません。その意味で成績の観点では配慮があるのですが、とはいえ子ども自身は周りとの差を感じてしまうでしょうね。もっと言うと、多くの教員は子どもたちに「頑張る力」を身に付けさせたいと思っています。劣等感を抱かないようにケアするのではなく、劣等感からくる悔しさをバネに発奮してほしいと願ってしまうんですね。

なぜ誰も「数学を学ぶ本当の訳」を教えてくれないのか

卓也:もちろん頑張ることも大事です。ただし、劣等感や優越感のためではなく、あくまで知的好奇心から勉強してほしいんですよね。先生方は授業で、教科を学ぶ意義や面白さも伝えているのでしょうか?

蓑手:ほとんど説明してないんじゃないですかね。実は、ここはタブーな部分というか……。子どもたちがよく言う、「別にこれ覚えなくても生きていけるし」はある意味真理なんですよ(笑)。知らなくても困らない単元は実際に山ほどあるし、教員自身も適切な答えを持っていない場合が多いので、議論自体を避ける空気は感じますね。仮に担当教科や当日の単元について語れても、「じゃあ、ほかの教科は?」と聞かれると臆してしまうことが多いと思います。そうすると二言目には「受験して進学するため」などと主客転倒な回答をしてしまう。

卓也:そもそも教職課程では、各教科や単元の意味を学ぶんでしたっけ……僕も教育学部を卒業していますが、僕の中にはどうもその記憶がないんですよね。

「記憶がない」という卓也だが、果たして実際は……?

蓑手:確かに、歴史を学ぶ意味くらいなら教わった気もしますが、各教科の単元までは踏み込まないですね。ましてや、「この単元は本当に必要か」など、現代における各教科の必要性やあり方を問う機会はほぼないです。個人的なことを言わせてもらうと、僕は今後、ヒロック初等部で既存の教科を枠組みどおりに扱うつもりはありません。というのも、はっきり言って、すべての教科が全員に必要だとはまったく思わないからです。例えば、数学は論理的思考力を鍛えるために教えるべきという意見もありますが、論理的思考力を身に付ける方法は数学以外にいくらでもあります

とはいえ、公立小学校の教員が生徒に「数学はやらなくてよい」などと言えば大変なことになります(笑)。親はやはり子どもに受験を勝ち抜いてほしいでしょうから、「余計なことを言うな」とクレームが来るでしょうね。いわばパンドラの箱のような難題です。

卓也:親としては、受験のために「学校はとにかく子どもの成績を上げてくれ」という思いもありますよね。ただ、そうした親の希望と子どもの意思の間にはギャップがあるかもしれない。もちろん、偏差値の高い学校に受かりたくて自ら勉強をする子もいますが、そうじゃない子も結構いると思うんですよね。そういう子たちは、授業を受ける意義を見いだせないんじゃないかな。僕も、どうせなら確定申告のやり方なんかを教えてほしかったです(笑)。

蓑手:例えば、今ならウクライナ情勢は絶対に児童も学ぶべきです。これらを知る時間さえないというなら、学校として本末転倒でしょう。ただ正直、教員自ら授業をアレンジする余裕はどこにもないというのも事実。年間の授業時間は国で定められた内容で埋め尽くされていますし、そもそも一教員にはそのカリキュラムを変更する裁量権がありません。さらに、規定された内容を教えずに児童が不利益を被った場合、その責任を誰が取れるのかという問題もあります。こうした状況では、教員のやる気や主体性がそがれるのも当然な気さえしますね。

卓也:いやあ……想像以上に複雑だな……。蓑手先生が公立小学校を離れた理由もこのあたりですか?

蓑手:僕自身は、公立小学校での14年間はすごく楽しかったと思っています。先ほど、一教員には授業をアレンジする裁量権がないと言いましたが、実は、僕は自分の授業で扱う内容を可能な範囲で調整していました。ただ、これができたのは長年かけて校長や保護者、地域の方と信頼関係を築いたからこそ。その努力が異動するたび水の泡になるのでは、あまりに非効率的です。

卓也:信頼関係を築く過程で1度でもすれ違いがあれば、それ以上は動けなくなるリスクもありますもんね。

蓑手:それに教育改革は極論僕のエゴでもありますから、一部の児童や保護者を無理に巻き添えにするのも本意ではありませんでした。そこで、自分の責任下で行動しようと独立したんです。あと正直な話をすれば、「これだけ頑張ってもこんなものか」と、一教員としての影響力に限界を感じたのも理由ですね。

公立小学校にとって期待の存在だっただけに、辞職時は惜しまれたという

卓也:どんな部分でそう感じたんですか?

蓑手:「自由進度学習」の導入やオンライン授業の整備です。コロナ禍での一斉休校期間、僕は毎日オンライン授業をしていました。児童同士の交流の場も整備して、休校開始の翌日には体制を整えましたが、ほかの公立小学校にはまったく広がらなかった。僕も教育界隈での知名度はそれなりにあったのですが、公立小学校を内から改革する道のりは果てしなく長い気がしました。ただ、決して改革自体を諦めたわけではありません。公立小学校の教員たちとは引き続き交流を持ち、外から教育の逆輸入をしていきます。

「平等主義」を突き詰めた公立小学校の末路

卓也:その話、なぜ、広まるべきものが広まらないんでしょうね。想像するに原因は「保守的思考」と「主体性の欠如」なのかな。公立の立場では従来の教育体制を無視できないし、先生的にも「自分の負担を増やしてまで挑戦はしたくない」……どうでしょうか。

蓑手:まさにそのとおりだと思います。公立学校は平等主義なんですよね。昔、ある保護者に「私はこの学校を選んだのではなく、学区内だから通わせているだけなので、普通の教育をしてください」と言われ、それもそうかと妙にスッキリしてしまって。私立でない以上、学区による差を生むわけにはいきませんから、どの学校のどの先生も同じ授業をしなければならない。逆に言えば、公立では誰もが再現できる授業しかできないのです。優秀な先生には力をセーブしてもらわないといけませんので、これでは主体性も創造性も失われますよね。

ただ面白いことに、前年踏襲だけはどんなに負担が大きくてもやります。どんなに面倒でも、昨年やったことには反論が出ないんです。「変わらないこと」がいちばん安全でリスクがないとしてきた結果、日本の教育は150年間踏襲され続け、今でもほとんど変わっていません

卓也:まさか、公立学校はこのまま一生変わらない……? 日本以外の学校はどうしてきたんでしょう。

蓑手:実はこれ、選択肢さえあれば解決する問題なんです。海外の教育は多様性に寛容です。学校に行くか行かないか、教室で学ぶか野外で学ぶか、何を教材にするか――。それに対して、日本の教育には選べる部分が少ない、これが大きな違いです。

ただ、最近は希望もあります。まだまだ少数ですが、公立小学校で自由進度学習を取り入れる事例や、児童自身に学習内容を選択させる事例が出始めたんです。コロナ禍で児童全員が「登校したくても学校に行けない」状況に陥ったことで、例えばオンライン参加を出席扱いとして認めるなど、これまでの固定観念は一気に崩れました。

よく考えれば、不登校の児童はこれまでもずっと「登校したくても学校に行けない」状況だったわけで、そこに対応できなかった事情が今回は一瞬で取り払われたのです。いま、教育委員会も把握しきれない各所で例外が発生していることは確かです。

卓也:ある意味、コロナ禍は突破口になるかもしれないですね。登校を強制できない中で、各家庭や児童それぞれの学び方を認めざるをえない風潮を利用すると。

蓑手:はい。基本的に文科省は、世界の動向や今後行うべき教育をよく理解しています。今の日本の教育では、世界に求められている力が育めないという問題意識もちゃんと持っているので、国は新しい教育への改革に肯定的なんです。でも、圧倒的な世論と、学校現場を含む公教育業界などの抵抗勢力があまりに強力で、実際の改革にはかなり時間がかかっています。

日本の教育の発展を妨げる「抵抗勢力」の謎

卓也:マジでその抵抗勢力って誰なんですか? どう考えても、その人たちが日本の発展を妨げているようにしか思えないんですが。

蓑手:そうなんです。でもね、僕らのような親世代を含め、事実、日本人はずっと今の学校教育を受けてきたんです。今のスタイルが当たり前で、疑いようもなかったと思います。以前、このサイトで私が書かせていただいた記事に対するコメントを周りに止められながら読んだのですが(笑)。

止められつつも、しっかりコメントを読んでしまった蓑手先生

卓也:絶対に見ないほうがいいやつですよ(笑)。

蓑手:僕が主張した、「学びは本来楽しいもの、もっと自由に楽しみながら力をつけることが大事」という考えには非常に多くの批判がありました「何を言ってるんだ、苦行をしてこそ勉強だろ」とか、「歯を食いしばる力がないから最近の若者は駄目なんだ」というコメントを目の当たりにして、「そうか、世論は圧倒的にこっちか」と改めて実感しましたね。とくに強いのは保護者の声です。個々の学校はもちろん、文科省や教育委員会も、保護者に「NO」と言われれば動けないのが現実です。

卓也:保護者からすれば、「よりによってわが子の代で、なに試行錯誤してくれちゃってんの」という気持ちですよね。大事なわが子が、受験や就職への影響を含め、前例も確証もない改革に巻き込まれるくらいなら、今までどおりの手堅い教育をしてほしいと。

蓑手:われわれ世代にはどうしても、「そもそも仕事は我慢するもの。やりたい仕事ができなくても、そこまで幸せとはいえなくても、お給料をもらえるなら大したことない」という人生観があります。夢や憧れに執着せず、それなりの大学を出てそれなりの企業に入社すれば安泰なのだから、子どもに余計なことを吹き込まないでくれということでしょうね。

卓也:うわ、むっず………!!! 「今までの教育」を受けた結果、大人たちもそれなりに安定した生活ができているからこそ、抜け出せないわけだ。

「日本の社会構造」が生む負の連鎖を痛感する卓也

蓑手:日本の学校教育に順応してうまくレールに乗れた人には自己肯定感がありますし、自分の経験を正当化したい気持ちも相まって、先の批判コメントのように「そんな貧弱じゃ駄目だ」と言うんです。一方で、ヒロック初等部のようなオルタナティブスクールに集まる人の多くは、さまざまな事情で日本の画一的な教育に疑問を抱いているんですよね。例えば、学生時代に海外の学校に通っていたり、不登校だったり……。「日本の学校っておかしくない?」と思っていた彼らの周りに、ようやく最近、モンテッソーリ教育など海外の情報を耳にした感度の高い親御さんたちが加わりはじめたところです。

卓也:僕なんかは、学校には前例にとらわれずに、子どもたち一人ひとりの可能性や多様性を見いだしてほしいと期待しちゃいますが、こういう親は少数派なんですか?

蓑手:お子さんが小さいうちは、親も「自由に育てたい」と考えているはずなんですが、いざわが子の受験が近づくと、「1つでも偏差値を上げてほしい」「少しでもよい大学に入ってほしい」という気持ちがにじみ出てくるんですよね……。

卓也すべての親が「教育改革は構わないけど、うちの子だけは受験に成功させたい」と思っているから、一向に進まない。日本の社会構造が変わらないと、教育現場も変わりづらいですね。

蓑手:希望的な話をするなら、本当に少しずつですが社会構造も変わってきています。例えば、学歴社会の崩壊。企業の採用活動はあくまで能力を重視していますし、必ずしも学歴と能力が比例しないことはよく言われるようになりました。とはいえ、1点2点を争ってきた層はまだまだ厚いですから、採用基準や入試方法が変わってもなお、世間に完全に浸透するまでには長い時間がかかるでしょうね。

卓也:なかなか前途多難ですね……。後編では、日本の教育改革に勝算はあるのか、ぜひ希望にあふれた話を聞かせてください、先生!
(後編は5月13日公開予定)
(企画・文:田堂友香子、撮影:今井康一)

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