──初の訪米からなんと50年。
1971年の夏を高校の交換留学生としてハワイで過ごしました。
55年に父(弘之)が、日本の若い知識人に米国を見聞させるロックフェラー・フェローシップで1年近く米国に滞在、被爆地・広島出身の米国嫌いが米国大好きになって帰ってきました(笑)。交換留学の話を聞いた父が「ぜひ行ってこい」と、私より熱心だった。
ハワイは米国でもとりわけ多様な土地でした。日本は互いの年齢が重要で、学生のときってとくに同年齢の集団に属さなくてはというプレッシャーがあり、病気で3年遅れていた私は完全に外れていた。ところが米国は、年齢も人種も民族も関係ない。すべてがよく見えて、一時は完全にかぶれました。
──多様性との関係が始まった。
米国には従来のやり方にとらわれない新しい発想を生む力があり、それは多様性と切り離せない。人種、民族、宗教などを異にする多くの人々がいるから、奇抜な考えが生まれ、その発想を実現しようとする自主性にも富んでいる。フェデックスは、今でいうハブ・アンド・スポークのアイデアを大学のリポートで提出した学生が、Cという低い評価を受け、だったら実証してみせるとつくった会社。マイクロソフトなどガレージ発祥の大企業は多いし、民間で宇宙開発なんて発想も米国が先でしょう。
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