アパレルショップの撤退に再開発の加速。若者文化の発信地から“没落”する渋谷の実像に迫る。
しのぎ削った五島慶太と堤康次郎
――1940年中頃までの渋谷には「まだ農地が残っていた」と聞きます。
1932年に渋谷区が成立したときには、すでに農地はほとんどなくなっていた。このことは1966年に区が発行した『渋谷区史』に明記されている。明治時代に15区だった東京(当時は東京市)は、1932年に35区体制になる。そのときに増えた区のひとつが渋谷区だった。「渋谷町」「千駄ヶ谷町」「代々幡町」の3町が合併して渋谷区になった。
このころは宅地開発が進められ、特に「道玄坂」の宅地開発では五島慶太の率いる東急グループと堤康次郎を総帥とする西武グループがしのぎを削っていた。ほかにも「円山町」や「百軒店(ひゃっけんだな)」のあたりも「五島慶太 vs. 堤康次郎」の図式で、開発が争われた。
――それ以前は、渋谷駅の誕生が街の発展に寄与したのでしょうか。
さかのぼると、渋谷の発展に最も大きな力になったのは1885年の日本鉄道品川線「渋谷駅」(現在のJR渋谷駅)の開業でしょうね。鉄道会社としては地盤のいいところにつくりたいということで、まずは恵比寿近辺を計画していたが、反対運動が起きてだんだん追いやられ、現在の渋谷駅の位置より200メートルほど恵比寿寄りのところ、今の渋谷警察署が構えるあたりに最初の駅ができた。
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