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日中はリベラリズムを共通の価値観にできるか 中国をめぐる言論の「ねじれ」を読み解く

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2012年の反日デモでは、各地で毛沢東の肖像が掲げられた(ロイター/アフロ)

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日本を代表するリベラリストであった石橋湛山について、中国文学者の竹内好が「自由主義者にしてアジア主義者」という希有な例だとして評価したことはよく知られている。ここでいう「アジア主義」とは、石橋が戦前、中国や台湾、朝鮮などのナショナリズムに積極的な理解を示し、植民地放棄説を唱えたことを指している。魯迅の紹介者として知られる竹内は、近代日本におけるアジア主義の研究でも先駆的な存在であった。

リベラリズムとアジア主義は水と油? 

筆者の見るところ、そのような「アジア主義(アジア重視の姿勢)」とリベラリズムとの「相性の悪さ」は、戦前だけでなく、現在の日本社会にも受け継がれている。政府間の緊張が続く東アジアにおいて、リベラリズムを共通の価値観とする「公共圏」を創出することは可能だろうか。

ここでは東アジアにおけるリベラリズムの問題を、社会の「平等化」という観点から考えてみよう。19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、近代以降の民主的な社会の本質を、人々が古い身分制度から解き放たれて「同じ権利を持つ人間」として扱われる、すなわち「平等化」することに求めた。

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