仮設から仮設へ、復興商店街の厳しい前途 震災3年半後の宮城・気仙沼で起きていること
気仙沼の海の玄関口「内湾地区」でうどん店を17年営んできた賢一さんは、震災前年の10年10月に生まれ育った鹿折地区で店を新築した5カ月後に大震災に遭遇。妻のホルモン焼き店に至ってはオープンを迎える直前に津波に飲み込まれた。
何もかも失った賢一さんはそれでも事業をあきらめなかった。焼け焦げたがれきが山積みとなった町で店舗再開の候補地を探し、仮設商店街の事業計画から仮設店舗整備事業を担う中小企業基盤整備機構への申し込みまで一人で手掛けた。そして賢一さんのリーダーシップで当初5店舗からスタートした「気仙沼鹿折復幸マルシェ」は最も多い時には26店舗が軒を連ねる気仙沼再生のシンボルになった。
鹿折地区といえば、津波で流れ着いた大型船の「第十八共徳丸」(330トン)で有名だった。その船の周りを欠かさず清掃し、献花台を整備してきたのも賢一さんと家族、店のスタッフだった。
船が昨年10月に解体撤去された後、何も見るところがなくなった町に観光客をつなぎとめるため、地区全体を見渡せる「見学台」(海抜7メートル)を市に働き掛けて実現させたのも賢一さんだ。
問題は市の計画のなさ
賢一さんは町の復興をどう感じているのだろうか。聞くと次のような答えが返ってきた。
「3年前に『マルシェ』を立ち上げたとき、まさか仮設店舗から仮設店舗に移るとは夢にも思わなかった。震災から2~3年もたてば、道路の整備や土地のかさ上げもある程度終わっていると思っていたが、現実はここまでしか進んでいない」
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