パナソニックが「松下離れ」後に背負う十字架 創業家の世襲問題をめぐる悲喜こもごもを経て

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本社がある大阪府門真市からも「松下」が次々と姿を消している。2022年4月から、パナソニックは、パナソニックホールディングスに社名を変更し持ち株会社制度へ移行する。これに伴い、家電製品や電設資材事業を担う最大の事業部門となるパナソニック株式会社が本社機能を東京へ移す。

2017年には、流通システムなどBtoB(企業間取引)事業を手がけるコネクティッドソリューションズ社(略称CNS、2022年4月からパナソニック コネクト)が門真を出て上京している。これに続く大所帯の引っ越しである。地元関西では「いよいよパナソニックも東京シフトか」と嘆く声も少なくない。近く正幸氏の姿が門真本社から消えた光景は、まさに明治新政府樹立を前にした徳川幕府最後の第15代将軍・徳川慶喜の姿と重なる。

正幸氏の世襲をめぐる論争

パナソニックにおける正幸氏の世襲をめぐる論争は、今や語り草となる「昔話」になっている。シニアにとっては聞いた話であっても、ミドル以下の世代、とくに、松下幸之助氏を「歴史上の人物」と思っている大学生の目には、戦国時代の深慮遠謀を描いた「大河ドラマ」と映るようである。そこで、そのあらすじを紹介しておこう。

① 松下幸之助氏は、戦前、伯爵家出身で東京大学法学部を卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に勤めていた平田(松下)正治氏を一人娘・幸子さんの婿として迎えた。幸之助氏は、11歳の時に父、18歳の時に母を相次いで亡くしている。そして、起業した3年後の26歳で、最後に残った一番上の姉とも死別。幸子さん誕生から5年後に長男・幸一さんを授かるが、満1歳を迎える前に急死してしまった。

度重なる親族の死に直面してきただけに、松下家存続を願う思いは強かった。幸之助氏は1961年に正治氏を社長に任命する。「陰の取締役」である妻・むめのさんと幸子さんの望みに配慮したトップ人事だった。正治氏は同年、タイに戦後初の製造現地法人を設立したのをはじめ、海外展開を積極的に推進し、グローバル企業の基礎固めに貢献した。が、幸之助氏が全面的に経営を任せることはなく、幸之助氏が会長を務め大きな影響力を持ち続けた。

② 1964年7月、不況で悪化した販売を立て直すため、松下正治氏には社長を任せておくわけにはいかないと言わんばかりに、松下幸之助氏は営業本部長代行として前線に復帰。これを機に、幸之助氏と正治氏との確執が深まる。「ゴルフ場に行っている暇があったら工場を回りなはれ」と幸之助氏が正治氏を叱ったというエピソードが残されているほど。

2時間で済む宴会ならまだしも、丸1日を潰してしまうゴルフなどもってのほかと考えていた。丁稚奉公から一代にして成功を遂げた苦労人で、仕事のことしか頭にない幸之助氏と女池出身のエリートで、大のゴルフ好きだった正治氏とは水と油の関係であった。

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