経済に詳しくない人もわかる技術が変えた歴史 世界相場に安定と繁栄をもたらしたのは何か

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このように費用に大きな格差が生じた理由は、1960年代初めに登場した「コンテナ船」運送システムにあります。1960年代初頭、米軍がベトナム戦争の初戦で優位に立てず、「長期戦」の泥沼にはまったのは、補給に問題があったからでした。

当時、南ベトナムは「近代的軍隊を支援するのにこれほど適さない場所も珍しい」との嘆きが聞かれるほど、劣悪な条件の下にありました。ベトナムは国土の南北の長さが1100キロメートルを超えるのですが、十分な水深のある港がたった1カ所しかなく、鉄道も単線が1本しかありませんでした。

さらに、アメリカ軍が利用できる事実上唯一の港であるサイゴン(現在のホーチミン市)も、メコン川下流の三角州に位置しており、戦場から遠い上、港湾施設は飽和状態にありました。したがって、艀(はしけ)を使って沖に停泊した貨物船から弾薬を積んでくる必要があったのですが、これには10日から30日もかかりました。

コンテナが事態を打開し、東アジアに「奇跡」を運んだ

このような事態を前に、アメリカ政府も解決策を考えざるをえなかったのです。このとき、アメリカ軍のある研究チームが輸送システムの根本的な改革を提案する報告書を出しました。その報告書の最初の項目にあったのが、あらゆる貨物の「梱包方法の統一」、つまり鉄製コンテナでした。コンテナは規格が統一されており、船の荷積み・荷降ろし時間を飛躍的に削減できます。この提案は、まだ生まれて間もなかったコンテナ産業にとって画期的なチャンスとなりました。

コンテナ港が建設されると、その後の輸送はトントン拍子で進みました。サイゴン港に代えてカムラン湾に建設されたコンテナ港へ、2週に1度の割合で約600個のコンテナが運送され、これによってベトナムで展開するアメリカ軍の補給問題は解決されていったのです。当時のアメリカ軍の軍事海上輸送司令部の司令官が、「7隻のコンテナ船が、従来のバルクキャリアー(ばら積み貨物船)20隻分の活躍をした」と評価したほどでした。

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この1件で、東アジア諸国も一大転機を迎えます。ベトナム・カムラン湾への輸送を終えてアメリカに帰る空っぽのコンテナ船が、ちょうど建設された神戸港で日本の電気製品をぎっしり積んでいったことで、アメリカに「メイド・イン・ジャパン」ブームを引き起こしたのです。つまり、ベトナム戦争による戦争景気に加え、運送費の劇的な削減のおかげで、日本、韓国、台湾は奇跡のような成長の機会を得られるようになったのでした。

こうして、アメリカで物を作るよりも、東アジアの安価な労働力で作った製品を輸入するほうがはるかにうまみがあるという、新しい世界が開かれました。もちろん、最大の恩恵を受けたのは、安くて良質な製品が使えるようになったアメリカなど先進国の消費者でしたが、東アジア3国も製造業の育成によって産業国家へと成長する足掛かりを得ることができたのです。

ホン・チュヌク 経済学者

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Hon Chunuku

延世大学校史学科卒業後、高麗大学大学院で経済学修士号、明智大学校で経営学博士号を取得。1993年、韓国金融研究院に入職した後、国民年金基金運用本部投資運用チーム長、KB国民銀行チーフエコノミスト、キウム証券投資戦略チーム長(理事)などを歴任。2016年には、朝鮮日報とエフアンドガイドが選定する「最も信頼されるアナリスト」に選ばれた。国際経済から金融、不動産まで、幅広い視点からの解説が人気を博し、各種メディアのトップインタビュアーとしても名高い。ブログ「ホン・チュヌクの市場を見る目」やYouTubeチャンネル「ホン・チュヌクの経済講義ノート」などで、経済や金融市場の難しい知識を簡単に伝える活動を精力的に展開。

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