富士山は誰のもの?県が“登山税"徴収構想 8合目以上の所有権持つ浅間大社の反発は必至

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富士山が世界遺産として認められたのは、世界的な観光地の名山としてではなく、長い歴史を持つ「信仰」が高く評価されたことを忘れているようだ。日本の要求で、西洋芸術に影響を与えた「芸術の源泉」の要素も加えられたが、実際には、世界遺産委員会は「信仰」のみに高い評価を与えた。

全国約1500を数える浅間神社の中心、富士山本宮の社記によると、垂仁天皇3年(紀元前27年)が富士信仰の始まりとされる。古来、同神社の湧玉池(国の特別記念物)で水垢離(ごり)を取って体を清めてから、本宮に参拝して登り始め、山宮での遥拝を経て、村山登山道を登り、頂上を目指してきた。

8合目から同神社の奥宮境内地に入り、ここからが富士登山の本番となる。噴火口を望むお鉢が山頂大内院と呼ばれ、大内院の底がほぼ8合目に当たるため、江戸時代の人々は雲間にそびえる富士山の8合目以上が神の鎮座する地域と考えてきた。本宮、山宮はご神体の富士山8合目以上を遥拝する独特の浅間造り構造となっている。

国は富士信仰を無視

1604年、徳川家康は浅間造り社殿を造営、さらに頂上支配などを同神社に認めた。幕府は1779年、富士山の6合目以上を境内地とする裁許状を同神社に与えている。

明治期以降、国家神道政策が取られ、すべての神社が、国の支配下に置かれた。第二次世界大戦の敗戦後、政教分離の原則から、法律によって、ご神体山を持つ大神神社の三輪山、二荒山神社の男体山、白山神社の白山などすべて各神社に返還された。

同神社も再び、8合目以上を所有できることになったが、1952年、大蔵省(現在の財務省)は富士山頂の奥宮神社周辺地域のみに限定、従来の所有地に比べて、20分の1以下の土地を同神社に譲与する処分を通告した。

富士山8合目以上の私有化反対を唱える1953年の冊子。国立公園協会、日本自然保護協会はじめ国会議員の多くが名前を連ねている

他の神社に比べて、あまりに不公平な処分に同神社は「富士山そのものがご神体であり、富士信仰を無視するもの」と強く反発、不服を申し出た。

国の社寺境内地処分審査会は同神社の訴えを認めて、大蔵省へ答申したが、この答申に対して、山梨県を中心に激しい反対運動が起こった。このため、衆議院行政監察特別委員会に諮られることになったが、国会周辺には筵旗(むしろばた)を持つ人々が取り囲むなど、富士山の“私有化阻止”を求める国民的な運動に広がった。

衆院特別委員会に同神社の佐藤東・宮司、小林行雄・文部省調査局長らを証人として呼び、同神社の所有に正当性があるかなどを審査した。佐藤宮司だけでなく、小林局長は「富士山は日本国土、民族精神の象徴だが、所有権の問題としては浅間神社に戻すのが最も適格」などと証言したが、同委員会は多数決で富士山を国有とし、特別立法で対応する決定を行った。

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