自由を目指してアメリカに来たのに、非常に強い不自由を体験することになった。結局、コミュニケーションが上手く取れないことが原因で、1年で日本に帰還した。
「今思えば、大学もアメリカも経験としてよかったと思います。当時から、いつも『自由』をテーマに考えていました。実は、今も強く『自由になりたい』という気持ちはあります」
アメリカから帰国した後は鹿児島ではなく東京に住んだ。ゴルフのキャディーや雑誌の編集、新聞配達、居酒屋などのアルバイトをしつつ1年半ほど生活していた。
「やりたいことも定まらず、就職活動も実らない。そこで
『実家に帰るか、あそこなら働けるし』
と考えました。そのときは福祉に対する情熱はさほどなかったですね。親が、障害者施設で働いていなかったら、働くことはなかったと思います」
ただ、急にはしょうぶ学園に人員の空きはなく、福森さんはアルバイトとして働くことになった。
跡継ぎになる予感はあった
福森さんは、軽い気持ちで働き始めた。ただ、兄と姉は独立していたので、
「自分がしょうぶ学園を継ぐことになるのかな?」
という空気は感じていた。
「誰も跡継ぎについては話さないんですけどね。兄弟の中でいちばん動きやすかったのが僕でしたから、僕が継ぐことになるのかな? と思っていました」
小学生の頃、母親が働いている所に立ち会ったことはあるが、指導員としてはずぶの素人だった。
当時は利用者も若かったので、庭で体育やレクリエーションの指導などを中心に行っていた。
「ある日、寮と寮の間の渡り廊下が不便なので、すのこを作ってくれと言われました。それがきっかけで木工を始めることになりました」
小さい木の工房では、福森さんと利用者2人で、本棚、鉛筆立てからはじまり、テーブルや椅子を作った。利用者の方には、材料を支えてもらったり、サンドペーパーをかけてもらったりした。
最初は軽い気持ちで始めた障害者施設の労働だったが、2~3年経って利用者の支援という仕事を本気で考えるようになった。
「『利用者を指導して社会復帰させる』という国の方針があります。僕はそれを鵜呑みにして指導を始めました」
繰り返し指導をすることで利用者が上手に作業できるようにする。できないことをできるようにして、技術を身につけて、そして社会に復帰してもらいたいと思った。
食品加工場へ行き、自ら白衣を着て利用者と一緒に仕事を覚えるためにジョブコーチをしたこともあった。
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