鹿児島から異色アートを発信する男の快活人生 「しょうぶ学園」がありのままを受け入れる訳

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高校に入るとサッカー部に入部したものの続かず、ラグビー部へ転向。

「そのラグビーの経験が人生にかなり大きく残っています」

高校時代はオール九州で活躍し、日本体育大学に進学することができた。

「大学時代もラグビーに明け暮れていましたね。練習のキツさには燃えるタイプだったので、まったくくじけませんでした。1年のときに全国優勝することができて、そのことは大きな経験になっています」

練習のキツさには燃えるタイプで、ラグビーに明け暮れていた福森さん(筆者撮影)

当時は、寮生活だった。12人部屋で6台のベッドが2列に並び、奥が4年生で手前が1年生のベッドとなる。その間はカーテンで仕切られているだけだった。

「もちろんプライベートなんかないですよね。それで、みんなラグビーの話しかしないんです。将来は、社会人のラグビーチームに入るか、体育の先生になるか、でしたね」

もしラグビーチームに入っても、多くの選手は20代後半でリタイアする。

その後うまく自分のやりたいことが見つかったらいいが、仕事が見つからない可能性も多分にある。現在もそうだが、多くのスポーツ選手の未来は不安定だ。

「例えば海外に行って働いたり、などいろいろな未来があるんじゃないだろうか? って思うようになりました。集団生活での規則や不自由への反発はその頃から強かったと思います。

それで、自分の可能性を求めて、あてもないのに結局2年でラグビーを辞めました」

そこからは数多くのバイトを続けながら、大学を卒業した。

就職活動を少しだけしたが、残念ながら落ちてしまった。当時はまだフリーターという生き方も、流行していない時代だった。いま思えばそのバイト経験もまた今日に生きている。だがそのときの福森さんは、行き場所がなくなったと感じた。

大学卒業後、バックパッカーとしてアメリカへ

そして大学卒業から数日後にバックパッカーとしてアメリカに渡った。

友人がいるサンフランシスコへ渡り、そこで1週間過ごした後、南下してロサンゼルスへ行き、その後より南下してサンディエゴに落ち着いた。

「サンディエゴではガーデナー(庭師)や大工の手伝いをしていました。カナダ人とアメリカ人のルームメイトができました」

それまで、

「アメリカに末永く住みたいな。永住権を取るにはどうしたらいいんだろう?」

という気持ちもあった。ただルームメイトとの会話に言葉の壁があった。

「僕の英語は片言でしたから、深い話になるとついていけなくなります。自分の考えが伝えられない。それがすごくもどかしい。自分の考えが伝えられないのがとてもつらかったですね」

アメリカで挑戦をするつもりだったが、現実には暮らしていくのが精一杯だった。

次ページ自由を目指してアメリカに来たのに
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