小田急線の起源は「まぼろしの丸ノ内線」だった 転機迎えた地下鉄の意外な過去とその歴史
経由地や起終点の地名から見てもわかるように、東京都心の各エリアを結ぶ路線が中心。「小田原」の字はいっさい出てこない。線路の構造も地下式と高架式の併用としていた。
この頃、東京市内は市営の路面電車網が発達していた。しかし、車体が小さく速度も遅い路面電車は、利用者の増加で輸送力が不足し、慢性的な遅延を引き起こしていた。その一方、欧州の各都市では地下鉄の整備が進み、これを知った日本の起業家らは、路面電車に代わる「高速鉄道」として地下鉄を建設しようと考えた。
こうして1917年、東京軽便地下鉄道(東京メトロ銀座線の浅草―新橋間を建設した、のちの東京地下鉄道)の起業家グループが地下鉄の建設を国に申請。ほかの起業家グループも、これに刺激される格好で続々と地下鉄建設を申請した。利光の東京高速鉄道も、そうした申請路線の1つだった。
「丸ノ内線」1本に絞られたが
ただ、これにより各グループの申請ルートが競合。また、路面電車を運営していた当時の東京市は市内交通を市営に一元化したい考えを持っており、民間による地下鉄建設の申請に反発した。
このため、結果的には国が調整する形になり、まず1919年11月17日に東京地下軽便鉄道のグループに対して鉄道敷設を許可(免許)。1920年3月17日には、東京高速鉄道、武蔵電気鉄道、東京鉄道の各グループが鉄道敷設免許を受けた。
国はこれらの免許に際し、東京市が将来買収する可能性があるという条件を付けた。また、各グループの計画ルートも国が策定した地下鉄ネットワークの計画に基づき、大きく変化。このうち東京高速鉄道は、新宿―日比谷―万世橋―大塚間の約14kmを結ぶ地下鉄を建設することになった。
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