“非常識”なヒコーキ ホンダジェットの勝算

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“非常識”なヒコーキ ホンダジェットの勝算

「まるでパンケーキのように売れていくじゃないか」。2006年10月の全米ビジネス航空機協会ショー。初日から3日間で100機を超える受注を獲得する史上初の出来事に、周囲は一様に驚いた。

熱烈な歓迎を受けたホンダジェット。本田技研工業が100%出資するホンダエアクラフトカンパニー(米国ノースカロライナ州)の藤野道格(みちまさ)社長はこの日を一生忘れない。「図面段階では99%の人がアグリーだ、こんな飛行機売れないと言った。でもあの日、『こんな美しい飛行機は見たことがない』というのがいちばんうれしい賛辞だった」。

完成までには足掛け20年の歳月を要した。1986年、本田技術研究所が埼玉に基礎研究センター(F研)を設立したのがすべての始まり。のちに二足歩行ロボット「アシモ」やバイオエタノール技術等を生み出すことになる、いわば「何でも研」に、当時入社3年目だった藤野氏はじめ若者たちが集められた。

当時はまったくの白紙。さっそく米国ミシシッピ州立大学へ“出稽古”に出される。当時いちばん年下だった藤野氏は、最初の1年間、前掛け姿で型のヤスリがけばかりしていた。だから、今では部品を見ただけで重さがわかる。飛行試験では副操縦席で、気持ち悪さと戦いながらデータを紙に書き込んだ。スピードや高度は体にたたき込まれている。「僕は自分でコンセプトを考えて、自分で造って、できれば自分で売りたい性格」。大学の航空学科は出たが、日本の航空機メーカーでは機体の一部分を下請けで設計するような仕事しかできない。それならクルマをやろうとホンダに入った青年が、航空機でそれをやってのけた。幸運な巡り合わせというのは実在するのだ。

米国でも技術が細分化しすぎて、全体がわかる技術者は減りつつある。だからこそ、自らの手で一から十まで造り上げたホンダジェットが米国人にはまぶしい。

ホンダは92年に初号機MH02を完成させたが、商品化には至らなかった。一時は撤退かと思われたが、藤野氏らが当時の川本信彦社長らに掛け合い、事なきを得た。それからさらに10年余。ホンダジェットはどこにも比べるもののない、斬新な飛行機に仕上がった。

今年5月からはヨーロッパでも受注を開始した。「米国と欧州の市場規模は7対3か8対2と見ていたが、実際は同じくらい」(藤野社長)とうれしい誤算。数字はまだ未公表だが、滑り出しは好調のようだ。

10年後半の初号機納入まで800日。この小さな飛行機が大空に飛び立つ日を、世界中が待っている。


(週刊東洋経済編集部)

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