東京の俳優 柄本明著/小田豊二 聞き書き ~青春の誤解で始まるつまんなくない俳優人生
柄本明は「東京乾電池」の個性派俳優として人気を博してきた。その波乱に富んだ半生が生き生きと語られている。
1948年、銀座木挽町の印刷屋の息子として生まれた。その後、家業が傾いて杉並区に移り住んだが、根っからの東京人である。小学生の頃から一人で西武新宿線に乗って二番館、三番館の映画館をはしごしたほどの映画狂だった。
そうなったのは両親の影響である。二人とも人並みはずれた映画好き芝居好きで、新派は花柳章太郎ではなく大矢市次郎、喜劇はチャップリンではなくキートン、と言っていたというから相当なものだ。家にはすべての映画雑誌があったという。
高校を出てサラリーマンになるが、20歳の冬、鈴木忠志の早稲田小劇場の芝居を見てショックを受け、あっさり会社をやめた。といってもすぐに俳優になったのではなく、まずは大道具のバイトを始めた。そのバイト先の劇団で串田和美と吉田日出子に出会って俳優人生が始まる。そこでベンガルと綾田俊樹と意気投合し、新しい芝居を目指した。「くだらなくて、情けなくなるような芝居」である。目指すは佐藤B作の「東京ボードヴィルショー」だった。
デビューは、新宿のビアガーデン。酔客相手に命がけで芝居をやった。題して「割りばし仮面とスプーンマンの決闘」。熱演のあまりベンガルは骨折し、綾田も頭を鮮血に染めたという。翌年秋、作家の岩松了を加えて「東京乾電池」を結成した。時は1976年、28歳だった。
それから三十数年、今も「東京乾電池」は続いている。そして人に教えるようにもなったが、「俳優って、どっかで好きじゃないという部分がある」という。でも、芝居ってつまんなくないとも。その出発点は「まあ、すべて、青春の誤解ですね」。
えもと・あきら
俳優。1948年生まれ。高校卒業後、商社に就職。のち劇団マールイ、自由劇場を経て、1976年劇団東京乾電池を結成。以後、舞台、映画、テレビ、CMで活躍。
おだ・とよじ
編集者・作家。1945年生まれ。
集英社 1785円 268ページ
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら