「吹奏楽コンクール」今の仕組みは"昭和"のまま?何十年も見過ごされてきた「音楽理論の欠如」、期待される<指導者の"読譜力"向上>
こうした研究からも、コンクールはその性質上、完全な平等性を担保することが難しいものだといえる。ゆえに、現状のコンクールにおける審査基準を抜本的に見直す必要があるだろう。
これからを見据えて新たな創造的価値を見出すとすれば、何よりも、私たちの吹奏楽を価値付けた諸要素、すなわち現状のコンクールで正しいとされている「“感性のみ”の価値観」を検証することが重要であると考える。
感性を磨くことで理論の精度が上がり、理論を突き詰めることで感性の深みを得るという相互作用を踏まえると、感性と理論の両輪が必要であるという基本的なコンセプトに立つことが求められるのではないか。
では、今の吹奏楽は、なぜ感性と理論のバランスが取れていないといえるのか。その一例として、「合わせる」という指示・価値観について考えてみたい。
「合わせる」という意識は主に、音程やリズムのことを指すと考えられる。音程を合わせることによってどういったことが改善されると考えられるのか、音程を合わせることと「音楽的な演奏」はどう関係しているのか――こういった根源的要素を論理的かつ定量的に思考することに、吹奏楽人は慣れていない。
端的に言えば、ユニゾンであれ、完全5度であれ、長三和音であれ、音程を合わせるのは、「濁らない響き」を作るためである。いわゆる「基礎合奏」と呼ばれる吹奏楽の独特な練習スキームも主たる目的はここにある。
今のままでは「やりがいを得るための競技」
しかしながら、今の吹奏楽界では、濁りのない響きを作る理由が明確化されていない。一般的には、調性音楽であれば必ず和声が機能性を持って連結され、その上に旋律等が対位法的に配されている。
つまり、「音程を合わせる」のは、機能和声の連結性を実感することであり、和声の推移から何がしかの感情の動きが生まれることを感じ育てるためであるといえる。
おそらくコンクールの審査レベルではこの辺りまでが限界であろうと思われるが、音楽的には和声の推移がなぜ喜怒哀楽を生み出すのかまで理解しなければ、吹奏楽の演奏はやりがいを得るためのただの競技でしかなく、芸術として認識されるべき深みまで届くことは「無理ゲー」である。
だが、現在目にする吹奏楽メソードで、その深度まで説明されているものは、率直に言って、ない。もちろんコンクールの規定等にもそこまで踏み込んだ評価基準を設定しているものを目にしたことはいまだにない。このことは、現在の吹奏楽がいかに浅い音楽的基礎基盤の上にしか成り立っていないかを物語っている。何十年も、である。


















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