阪神電車「虎ファンの聖地」だけでない沿線開発史 六甲山をリゾート化、甲子園には「阪神パーク」も
昭和に入ると住宅地の真ん中にある遊園地ということで、多くの来園者を集めた。1973年には年間の入場者数は135万人になり、これがピークという。
だが1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたうえ、東京ディズニーランド(千葉県浦安市)やユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪市此花区)といった全国的な集客力のあるテーマパークの開業で客足が減少。住宅展示場として衣替えした後、2003年に閉園した。
ただ近隣住民にとっては親しみのある施設で、甲子園駅の駅前広場に1日だけ復活させるイベントが2024年3月に開かれた。それほど遊具はそろわなかったようだが、往時をしのばせる写真展やポスター展などが活況だったという。甲子園阪神パークのあった時代は日本の高度成長期とも重なり、なつかしむ大人たちは多かったようだ。
「関西の文化」にまで発展した
六甲山上や甲子園の開発は、もともと鉄道会社の需要創出をねらった試みであったことは間違いない。だが時代や産業、人々の娯楽に対する要求などのさまざまな相乗効果で、文化にまで昇華したといえるだろう。
小中学校9年間のうち熱心な阪神ファンの担任に1度は当たるとされ、「阪神タイガースは関西の子供の義務教育」という冗談もある。阪神が120年間に創り出したものは移動の利便性にとどまらず、すでに生活の一部として浸透しているものも多い。
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