避難所でふさぎ込んでいた80歳の裁縫名人、「死のうと思ったことも何度かある。今は、生きててよかったと思う」--そごう柏店「までい着」販売会までの足取りを追う
飯舘村から福島市松川町の仮設住宅団地に避難している菅野ウメさんは、病院で「うつ状態」と診断されていた。何の気力も湧かず、終日、仮設住宅の自室に閉じこもっていた。人と会うことすら煩わしかった。
病院から連絡を受け、社会福祉協議会の担当者が定期的に訪れても、窓越しに指でバツを作って面会を断っていた。仮設住宅団地の管理人、佐野ハツノさんがやってきても、「具合がよくないから」と門前払いした。
村にいた頃のウメさんは、80歳という高齢ながら、農作業の手を休めず、村の母ちゃんたちのあらゆる相談ごとに乗り、自動車を自ら運転して村中を走り回っていた。村民の精神的支柱の1人だった。だが、震災、原発避難という混乱の日々がそんなウメさんの心に大きなダメージを与えてしまった。
とにかく、被災後、ウメさんは休まる暇がなかった。ウメさんは若い頃、自分の腹を痛めた子どものほかに、2人の里子を育て上げた。孤児が苦労している実情を報じたテレビ番組を見て、自分がやれることをやろうと思ったからだった。
里子の1人である息子さんは、福島県いわき市に住み、脳障害を持つ一人娘を海沿いの豊間地区にある施設で介護していた。そこに、昨年3月11日、震災の津波が襲いかかった。高台にあったその施設は難を免れたが、周囲は甚大な被害を被った。施設に入所していた人たちは茨城県に移送された。
身体障害者にとって、移送されることだけでも大きな負担となる。ウメさんの孫娘は、移送先で高熱を発するようになった。その連絡が入るたびに、ウメさんは山間の飯舘村から茨城県の移送先へと足を運んだ。被災直後のことである。道路事情は極めて劣悪だった。5時間半を要した。
「あの子(息子さん)には身内は私しかいないから」
ウメさんは、何回も通ったが、悲しいことに、その孫娘は5月に息を引き取った。遺体は村まで運び、葬儀をあげた。
それから息つく暇もなく、今度は、国による計画的避難指定によって、村を退去せざるをえなくなった。「どんなことがあっても、村にいたい」と思って避難を渋っていたウメさんのもとに、ある日、菅野典男村長がやってきた。