

医療難民、医師を経て、最年少国会議員に
重子:今枝先生、今日はよろしくお願いします。
今枝:今枝宗一郎です。宗ちゃんって呼んでください。
重子:え、本当にいいのですか? 宗ちゃんは、偉い政治家の先生というよりも、何でもお話できるお医者さんという感じで安心感があります。それでは宗ちゃん、そもそもどうして政治家を目指したのですか? 当時、最年少国会議員として初当選されたのが28歳、今の娘の年齢とさほど変わらないので興味があります。
今枝:国会議員を目指したのは15歳のときですね。僕は小学校の3年間、ずっと大きな病気で、入退院を繰り返していたんです。命の危険もあったりして。それで、将来は小児科の先生になって、この世から子どもの病気をなくすとか、そういう方向にいくのかなと思っていました。
ところが中学に上がり、体力もついてきて、病院も週1回通う程度に回復して「ああよかった」と思っていたとき、通っていた病院の小児科のドクターが二人ともいなくなってしまった。医療崩壊、いわゆる医療難民という状態です。行く病院がないという絶望感は、病気そのものが大変だったときの絶望感より強かったのを覚えています。
重子:私が住むアメリカも、医療崩壊がすごいのです。
今枝:いったいなぜ先進国でこんなことが起きるんだ、と怒りと絶望にかられました。そして、当時すでにインターネットがあったので、いろいろ調べてみると、国で医師の数を抑制したり、地方の病院をぎゅっとね、締め付けていくような状況があるとわかったんです。
やっぱりそれは変えなくちゃいかんと思いました。医療や社会保障をよくする、変えていく、そういう国会議員になると15歳で僕は決めたのです。
重子:そこから、ストレートに国会議員を目指すのではなく、まずは医師になってから政治家になっているのはなぜですか?
今枝:一般的に、国会議員になろうみたいな話だと、東大なりハーバードなり文系の大学に行って官僚になって、国会議員になるパターンがよくあります。しかし、僕は二世、三世の議員でもないし、そもそも現場を知らないで、国会議員になるのはよくないと思っていました。現場を軽視していたから、この国も、医療もよくならなかったのでは、と思っていたのです。そこで、まずは医学部に行き医師になり、現場での経験をいかして医療政策をよくできる、そういう国会議員になろうと決めました。
自分にできることは、現場に飛び込むことだと思っているのも理由の1つです。高校時代に、愛知県の生徒会ネットワークに入っていたのですが、その仲間の親御さんがリストラに遭って学校に通えなくなることがありました。自分には何ができるかを考え、毎朝、毎夕、豊川駅や千種駅でみんなで募金活動をした。その結果、いただいた募金を奨学金として、仲間を助けることができました。そんな経験もあって、まずは現場を知らないといけないと思っていたのです。そこで理転して医学部に入り、医師になりました。
重子:すばらしい! 私が代表を務めている「BYBSコーチング」では、学校の総合的な学習の時間で「社会性のある夢を見る」という授業を提供し、子どもたちにどうやって、夢を持って、実現していくかを教えているのですが、宗ちゃんが「医師」となり「政治家」になるまでの夢の見方は、まさにこの授業で教えていることと同じです。