「優しさ・思いやり」が強調される日本の人権教育、世界と大きくズレている深刻 政府の義務が自己責任にすり替えられる危険性

国連と日本の人権教育の「ズレ」
私は普段は英国にいて、年に数カ月日本で講義や講演を行っている。専門は国際人権だが、まず「そもそも人権とは?」ということを話す。すると、多くの人がそれまでの人権へのイメージや理解との違いに驚く。それは、国連が提唱する「本来の人権教育」が日本では行われていないためだろう。
日本の教育では人権について「視覚障害者が道路を渡れず立ち往生していたら、手を引いて渡らせてあげよう」といった思いやりの側面が強調されているようだ。それも大切なことだが、これはあくまで個人によるアプローチだ。それでは親切な人がいない場合や、障害者を差別する法律がある場合には対応できない。つまり、個人のアプローチだけに頼り、構造的な問題に目を向けなければ、制度や法律が引き起こす人権問題を克服できないのだ。
一方、国連は人権について「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性(potential)を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」と説明している。つまり人権の実現には、政府が義務を遂行する必要がある。
政府の義務と自分が持つ権利を教える必要性
そして、その義務の内容を具体的に示しているのが、各種の国際人権条約だ。各条約には政府が保障すべき権利が規定されている。われわれは、それを学ぶ必要がある。例えば本来、学校では子どもの権利条約が保障する権利を生徒に教えなければならない。英国はじめ、多くの先進国ではそういう教育がされている。ところが日本の学校では教えられていない。
人権について理解していなければ、自分の人権が侵害されても「被害を受けた」と気づけず、声を上げることができない。ジャニーズ問題でも、被害を受けた人たちが「当時は性被害だと気づかなかった」「性被害だとわかっていたら逃げ出していた」などと発言していた。
一方、英国ではバイト先のマクドナルドでセクハラを受けた高校生が声を上げ、社会問題となった。「自分には人権がある」と認識し、その権利の内容を理解していることは重要なのだ。そして、それを教えることが本来の人権教育だ。
「思いやりアプローチ」の教育の危険性と本来の人権教育
国連も人権教育を重視してきた。1993年に採択された決議文では人権教育を「あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学び、またその尊厳を社会で確立するためのあらゆる方法と手段について学ぶ、生涯にわたる総合的な過程である」と定義している。
つまり本来の人権教育では、自らの権利を知り、自分たちが権利の主体として、人権の実現のために行動するための知識を学ぶ。そして、そのような知識が人権実現への活動につながり、人権侵害を引き起こしている社会構造などを変えてきた。