アメリカの格差を反映している「レガシー入試」
明らかに文部科学省は、従来のペーパー型の入試から総合型の入試に舵を切ろうとしている。それに伴って大学も、ペーパー型の一般入試から学校推薦型や総合型などの年内(旧AO)入試へと軸足を移していくことを余儀なくされるだろう。すでに早稲田大学では、2026年度には入試定員の6割を、総合型入試で選抜することを発表している。
おそらくアメリカなどを念頭においてのことなのだろう。アメリカでは、ある意味ですべての入試がAO入試のようなものである。もちろん、SATという日本でいう共通テストのようなものがあり、そのテストで点数を取ることも必要である。しかしアメリカはいうまでもなく、格差の大きなことで知られる社会であり、入試もまた格差を反映している。
とくに、有名な大学では多くの学生が「レガシー入試」で入学している。これは親戚縁者がその大学の卒業生であり、とくに有名人であった場合などに適用される。名前を挙げるのははばかられるが、有名な政治家の子どもが一流大学に受かっている場合など、レガシー入試だろう。
アメリカのリベラルアーツカレッジでは、ほとんどが実施しており、その割合は1割から2割程度である。またよくドラマなどで、「入学したかったら(退学を免れたかったら)、図書館でも寄付をすればいい」という台詞が出てくるが、これも冗談ではない。レガシー入試は、そもそも親の大口の寄付が狙いの1つである。
こうしたレガシー入試は、1920年代に東海岸のアイビーリーグと呼ばれるエリート校を中心に始まっており、その目的自体が、とくにユダヤ人を排斥し、アングロサクソンのプロテスタントの学生を増やすことであった。つまり、ユダヤ人やカトリック教徒、アジア系の学生ではなく、白人系のプロテスタントというアメリカにおけるメインストリームを増やすために行われているのである※1。
今ある格差を、さらに拡大する傾向がある。先述したように、こうした恩恵を施すのはとくにトップスクールに多いため、その効果は絶大である。
※1 Coe, Eeborah,L. &Davidson James D., 2011, The Origins of Legacy Admissions: A Sociological Explanation, Review of Religious Research , March 2011, Vol. 52, No. 3 : 233- 247
大学入学のため涙ぐましいまでの努力をする親
もちろん、多くの学生は、さすがにコネや財力では入学できず、ユニークな経験を売りにして、大学に入学する。そのために、親は涙ぐましいまでの努力をする。
車社会のアメリカでは、さまざまな活動の送迎は親の役目である。ボランティアをするのも、もちろん入試のためである。あとはスポーツ。できれば夏と冬とで違うスポーツをしているのがよい。日本のように「勉強ばかりをしているもやしっ子(死語だろうか)」の評価は低い。
あとは一芸を秀でさせるために、例えば日本に縁のある人であれば日本語を、バイオリンを、フルートを、ピアノをとさまざまなお稽古事を行う。これだけやっても「普通」である。
親は、子どもを大学に売り込むために、どのように子どものプロフィールをきらびやかに見せるかを考えて、それこそ小学校に入学する前から「仕込み」をする。高校の夏休みの宿題ですら、評価の対象となり成績に関係するため、家族総出でチェックをし、さらに塾の先生にも見てもらい、完成度を高めているという話も聞いたばかりである。
こうした入試のための涙ぐましい戦略についての話は、よく流れてくる。ある大学教員は、子どもの歯並びを矯正させ、怠惰な人間だと思われないようにダイエットさせるため、冷蔵庫に鍵をかけて間食を禁止したという。
またある親は、両親とも日本語話者ではあるが、父親が南米の日系人であるため、子どもは南米に住んだこともないし、スペイン語も話せないが、人種を「ラテン」にしているという。アメリカではアジア人は過剰であり、それに比べてラテン系やアフリカ系は、入試においては格段に有利だからである。
2004年の研究だが、1600点満点のSATに対する人種等の影響は、アフリカ系で230点、ヒスパニック系で185点の加点、アジア人では50点の減点だったという。アジア系とヒスパニック系との差は235点もある。これだけを見るとアフリカ系が突出して有利に見えるが、レガシー入試の影響は160点もあり、それのほとんどが白人であることを考慮すると、相殺されてしまう。
またスポーツ選手の加点が200点あるが、アフリカ系の場合は人種の230点と組み合わせた場合、合計から100点ほどの減点になるそうだ。実際にトップスクールにまでたどり着くアフリカ系の学生数は非常に少ない。むしろ際立つのは、アジア系の不利である※2。
またこれはドラマの話で事実ではないが、キラキラしたSNSのインフルエンサーである女子は、有名大学による争奪戦になっていた。なぜなら入学してくれれば、無料で広報をしてくれることになるからである。あり得ることではないか、とすら思わされる。
※2 Espenshade, Thomas J.; Chung, Chang Y.; Walling, Joan L. , 2004,Admission preferences for minority students, athletes, and legacies at elite universities. December 2004, Social Science Quarterly. 85 (5): 1422–1446.
知的な水準を保障してきた日本の大学入試
こういった大学入試をめぐる騒動に、日本も巻き込まれていくのであろうか。
推薦入試などは、日頃のコツコツした勉強を評価するため、一発で決まるペーパー入試よりもいいと思う方も多いかもしれない。しかし、具体的な日数は明かせないが、少しの欠席があれば、その時点で推薦は絶望的となる。うかつに病気もできない。中間期末の試験でよい成績をとるべく頑張る3年間のプレッシャーを考えると、学生が気の毒になってくる。
そして学生はおそらく「そつなくつねにコツコツと努力することが人生において重要である」と学ぶのだろうが、それは現在のグローバルな社会の対極をいく人間像のようにも見える。
何よりも年内入試である。先にも書いたように、これはもう「親の入試」である。親がいかに子どもをプロデュースしたか。その財力と知力に基づいたゲームである。
今なら海外経験を毎年積んで、生きた英語を学ばせるだろう。「フランスのルーブル美術館で、こういうことに感動しました」「東南アジアで、ボランティアを立ちあげて多くを学びました」「実際に多くの異文化に触れて、多様性と寛容性を学びました」。こうしたことは、子ども1人で経験することも、計画することもできない。
それに多くの子どもは、実際には総合型入試専用塾に通って対策をしている。判で押したような、前もって準備してきたような小論文の答案が出てくることもある。また入試業務をしていると、おそらくこういった塾の業者が、受験生と父母を装って論文の書き方などを聞いてくるのに出くわすことさえある。
個人的には、従来の日本の大学入試は、非常に公平であり、また日本の知的な水準を保障してきたと思う。例えば、多くの人が、暗算でその場でおつりを計算できるというのは、すばらしいことである。先にあげたアメリカの入試の例は、アメリカの一部のエリートの場合であり、大部分の人間は基礎的な教育からこぼれ落ちている。
日本では、高校までの授業をきちんと理解さえしていれば、普通に教科書と参考書で勉強するだけで、ほとんどの大学に合格することができる。極端な話をすれば、東大も例外ではないと地方の公立高校出身の私は思う。
それまで勉強をさぼっていたり、趣味に打ち込んでいたり、たとえ「ぐれて」いたりしたとしても、勉強をして試験に通りさえすれば、過去は一掃され、新しい未来が開けるのである。
教育社会学者の竹内洋氏は、アメリカのトーナメント型選抜と比較して日本のこれを、そろばんになぞらえて一発逆転が可能な「御破算型選抜」と呼んでいる※3。これこそむしろ「ドリーム」と呼ぶにふさわしい、再チャレンジ可能なシステムだったのではないだろうか。
※3 竹内洋,1991, 「日本型選抜の探究:御破算型選抜規範」,『教育社会学研究』49:34-56.
(注記のない写真:Fast&Slow / PIXTA)