子どもは「容姿を磨くよりも勉強すべき」と言う大人に知ってほしい「装う」意味 外見を気にすることが「成長の機会」になるワケ
「見た目がすべて」にならないために
――校則で髪色などが決められている学校もあります。学校や教員は子どもが「装うこと」について、どんな視点を持っているべきだと思いますか。
その時代のその地域の文化や、学校という環境は無視できません。また、環境がすべて子どものおしゃれに許容的である必要はありません。その環境にいかに適応し、学校の校則や親子で決めたルールの中でどこまでおしゃれを楽しむか。場合によっては少し逸脱しつつ、ルールとのせめぎ合いの中で自分を模索することも1つの学びですし、発達には重要なこと。社会に出てからも環境に適応しようとしつつ、自分のあり方を探っていくものですから。
――今、子どもを取り巻く環境にルッキズムは広がっていると思いますか。
アメリカなどではルッキズムは外見による差別を指していますが、日本では「外見に価値をおき、それに基づいた判断をする外見至上主義」という意味に置き換えられている場合が多いです。こうした外見至上主義が昔と比べて今の日本でどのくらい広がっているかを判断するのは難しいですね。
ただ、今はYouTube、TikTokなどのSNS、インターネット広告などで美容や脱毛など外見を意識させるコンテンツがたくさんあり、子どもが容易にアクセスできる環境です。インターネットの影響はそれなりに大きいと考えられていますが、外見至上主義とインターネットの関係については、まだ日本では十分に研究が行われていません。
一昔前の日本では、建前でも「人間は中身が大事」とされていましたよね。しかし、最近は「やっぱり外見が大事」と言いやすい社会になっているのでは。「外見がいいほうが高評価になる」と感じているところがあると思います。そうでなければ、履歴書の証明写真を美しく修整することもないでしょう。
いずれにせよ、1つ言えるのは、自分の外見を気にすることと、人の外見についてあれこれ言うことは別の問題だということ。「あの子は勉強ができないよね」と言ってはいけないように、外見のことでも、そのほかのことでも、人のことをとやかく言うべきではないと思います。
――こうした中、保護者や教員、周囲の大人はどのような視点を持つべきでしょうか。
装いを通じて自分を構築することも子どもの発達には大切ですが、人にはいろいろな側面があり、いろいろな評価軸があると知ることも重要です。それは勉強やスポーツを頑張っている子も同じで、「勉強さえできれば」「スポーツさえできれば」「外見さえよければ」となってしまうと、ほかのチャレンジをしなくなりますし、今頑張っているものがうまくいかなくなったときにダメージが大きくなります。
「そうは言っても見た目がすべてじゃん」とならないよう、外見以外で評価されること、打ち込めること、楽しめることがあることを、子どもが腑に落ちる形で伝えていくことが大切です。
(文:吉田渓、注記のない写真: USSIE / PIXTA)
東洋経済education × ICT編集部
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