「あの人とはわかり合えない」の前に必要な思考法、価値観が違っても対話を 教育を語るときにやってしまいがちなこと

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「要因列挙法」とは、ある現象の原因を多数列挙して網羅的な検討をする思考法だが、時間的な順序関係あるいは要因間の因果関係を無視してしまうことの問題がある。「メカニズム解明法」は、さまざまな要因や人々の行為と相互作用に注目し、時間的展開の中でこれらが複雑に絡み合う様子を解明する思考法だ。

先ほどの例に戻ると、「学校の先生=学校以外の勤務経験がない。だから、世間の常識とズレる」というのは、「カテゴリー適用法」に近いと思う。何となくそうかなと思ってしまいがちだが、よくよく考えてみると、そうは言い切れないことも多く、説明力、説得力は低い。別の説明方法を考えてみよう。

教員の中には、すべての人がそうとは言えないが比較的、自身が中学生などのときに学校のやり方や教育活動に好意的、順応的だった人が多い。学校がイヤだった人の多くは、わざわざ手間のかかる教員免許を取ろうとしない。

そのため、教員として就職、赴任した後も、学校の慣習ややり方を疑問視する人が比較的少なくなる。

しかも、慣習や学校の“常識”を抜本的に見直そうとすると、手間、労力がかかるので、忙しい教員にとっては避けたいというマインドが働きやすい。

結果として、学校の昔ながらの慣習が残りやすく、その一部に世間や社会常識から見れば、奇異に映るものもある。

こうした説明内容の妥当性は別途検証されるべきだが、「メカニズム解明法」に近いと思う。

同様に、「文科省の役人や私のような外部のコンサルタントは、学校に勤めていない人だ。だから学校のことをわかっていない」というのも「カテゴリー適用法」だと思う。そうは言えないケースもあるし、外部の人間だと学校のことはわからない理由が説明されていない。

もちろん、いわゆる「現場経験」があるからこそ、見えてくることもあるとは思う。実際に子どもや保護者に接しないと、深く理解しにくいこともたくさんある。教育については、私も含めて、いろいろな人が「あーだこーだ」と意見、批判しがちだが、現場の先生たちの経験値や専門性へのリスペクトは大切にしたい。

同時に、自身の経験を過信しすぎるのも危険だ。教職員が述べる「現場経験」というのは、全国で約3万5000校(小中高、特別支援学校等、令和5年度学校基本調査)もある中のたかだか数校のことだ。

教職員も、あるいは学校外にいる人も、「オレが知っていることがいちばん」という前提から物事を捉えるのではなく、「自分の知っている世界はごく狭い」という前提に立ったうえで、お互いの知見やアイデアを持ち寄って、よりよく考えていくという姿勢のほうがよいのではないか。

「主体的で対話的で深い学び」とは、子どもたちだけではなく、大人の私たちこそ、実践していくことだ。

職員室は論理的で、対話的か?

さて以上は、学校のウチとソトの間の対話や議論の必要性についてだが、職員室の状況はどうだろうか。

いろいろな学校や場合があるので、十把一絡げに論じるのは乱暴だが、教職員からよく聞くのは、声の大きな先生が意見を述べると、職員室が「しーん」となって、そのあと意見交換や議論にならないという話。しかも、論理的で説得力のある意見やアイデアならまだしも、大ざっぱな主張や感情論が通ることもあるようだ。

例えば「この行事は子どもたちも楽しみにしていて、せっかくコロナが5類になったのだから、復活させるべき」という主張が出る。「児童生徒が楽しみにしていること=学校としてはやるべきこと」というこの主張の前提は妥当と言えるだろうか。楽しみにしていることだからといって、時間(教職員も子どもも)、人手は有限なのだから、何を選んで、何を捨てるかは考えなければならない。

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