レッテル貼りの罠

「文部科学省は学校現場の窮状を、わかっているんですか?」
「教員の味方だと思っていたのに、あなたは文科省寄りの人ですか?」
「現場経験のない人には、わからないと思います」

私のごく限られた経験の範囲内での話になるが、こういうコメントをもらうことは、何度かある。

年間100回以上、校長や教職員などに向け講演や研修をしたり、ときどき飲みに行ったりもするので、それなりに学校の先生たちと話をする機会はあるほうだと思う。冒頭のようなコメントは、研修会などの比較的公式な場で聞くこともあるし、X(Twitter)などのSNSで現役の教員と思われる方からのときもある。

こうした不満が出てくるのは、これまでの政策や保護者・社会からの期待などによって、学校のやることが大したスクラップがないにもかかわらずビルド&ビルドで積み重なり、大勢の先生たちが疲弊しているからだろう。

そこは共感するし、解決に向けて、私もできることをもっと取り組みたいと思う。だが、いくつか疑問も湧く。

・いつから、どういう意味で、文科省は学校の「敵」になったのか。
・そもそも「敵」か「味方」かという単純な図式で、世の中の複雑な状況を理解してよいものだろうか。
・経験がないから理解してもらえない、わかり合えない、という理屈(ロジック)は正しいのか。そうして対話や合意形成を安易に放棄してよいものか。 など

子どもたちの伸ばしたい資質能力として、「自分のアタマで考えられること」と述べる校長や教職員は多い。こういうことを書くと、また嫌われるかもしれないが、校長や教職員の中には、ちょっと立ち止まって考えること、批判的、論理的に思考することを飛ばしすぎている人もいるのではないだろうか?

妹尾昌俊(せのお・まさとし)
教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表
徳島県出身。野村総合研究所を経て、2016年に独立。全国各地の教育現場を訪れて講演、研修、コンサルティングなどを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文部科学省委嘱のほか、埼玉県、横浜市、高知県等)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁において、部活動のあり方に関するガイドラインをつくる有識者会議の委員も務めた。Yahoo!ニュースオーサー。主な著書に『校長先生、教頭先生、そのお悩み解決できます!』『先生を、死なせない。』(ともに教育開発研究所)、『教師崩壊』『教師と学校の失敗学』(ともにPHP)、『学校をおもしろくする思考法』『変わる学校、変わらない学校』(ともに学事出版)など多数。5人の子育て中
(写真は本人提供)

問題は保護者や世間にもあるのでは?

もちろん、問題は教職員だけにあるのではない。当の先生たちも、こうしたレッテル貼りやステレオタイプ的な決めつけに、傷ついたり、苦しんだりしたことがあるのではないだろうか。例えば、保護者や地域の人から、次のような言葉を浴びたことがある人もいるだろう。

・学校の先生は社会人経験がないから、世間知らずだ。
・担任の先生は、うちの子の味方をしてくれないんですか?
・子育て経験のない先生に、わかるんですか? など

こうした決めつけは、一面的である。一例として「学校の先生は社会人経験がないから、世間知らずだ」について考えてみよう。

「世間知らず」の意味は多義的で、言う人にとって都合のいいように使われている可能性もあるが、ここでは「世の中で常識的なことが学校では通用しないことがある」というくらいの意味で進める。

例えば、身内に敬語を使ったりするとき(例:校長先生は今出張されています)や合理的な理由が疑わしい校則が残っている場合などに、そう言われることがある。まず、「学校の先生は社会人経験がない」については、確かに最近のデータでも小中学校教員に採用された人のうち、学校以外の企業等での勤務経験のある人(アルバイトを除く)は3~4%にすぎない。

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注1:「計(※)」は小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、養護教諭、栄養教諭の合計 。注2:「教職経験者」とは、公立学校教員採用前の職として国公私立学校の教員であった者をいう。注3:「民間企業等勤務経験者」とは、公立学校教員採用前の職として教職以外の継続的な雇用に係る勤務経験のあった者をいう (ただし、いわゆるアルバイトの経験は除く)。注4:( )内は、前年度の数値。
出所:文科省「令和5年度(令和4年度実施)公立学校教員採用選考試験の実施状況のポイント

だが、だからといって、世の中の常識的なことが学校で通用しないとは、限らない。むしろ、とくに公立小中学校では、さまざまな家庭環境の子どもたちや保護者を相手に、先生たちはやりとりしている。相当コミュ力が高くないと、できない仕事だと思うし、いろんな家庭を知っているという意味では、平均的なビジネスパーソンよりも社会を理解している部分もある、と言えるかもしれない。

他方、「学校の先生は社会人経験がないから、世間知らずだ」などと言う(あるいは考える)人の中にも、せいぜい、企業等での経験は1社か2社という人も多いのではないだろうか。

しかも、その業界や企業で独特の慣習やガラパゴス化している癖が残っていることもある。例えば、毎朝ラジオ体操をやる企業がある。その企業にとっては常識や慣習であっても、外部の人から見れば奇異に映るときもある。「世間知らず」はお互いさまというところかもしれない。

カテゴリー適用法に注意

これに関連して、沼上幹著『経営戦略の思考法』(日本経済新聞出版社)の中に、「カテゴリー適用法」、「要因列挙法」、「メカニズム解明法」という3つの思考法が紹介されている。

「カテゴリー適用法」とは、ある現象をより大きなカテゴリーの一員に位置づけることで説明できると考える思考法を指す。だが、これは分類しただけで、「なぜ」には答えていない。例えば、「なぜ、スズメは飛べるのか」と子どもに質問されたとき、「鳥だから」という答えでは理由の説明になっていない。ニワトリ、ペンギンなど飛べない鳥もいるからだ。

「要因列挙法」とは、ある現象の原因を多数列挙して網羅的な検討をする思考法だが、時間的な順序関係あるいは要因間の因果関係を無視してしまうことの問題がある。「メカニズム解明法」は、さまざまな要因や人々の行為と相互作用に注目し、時間的展開の中でこれらが複雑に絡み合う様子を解明する思考法だ。

先ほどの例に戻ると、「学校の先生=学校以外の勤務経験がない。だから、世間の常識とズレる」というのは、「カテゴリー適用法」に近いと思う。何となくそうかなと思ってしまいがちだが、よくよく考えてみると、そうは言い切れないことも多く、説明力、説得力は低い。別の説明方法を考えてみよう。

教員の中には、すべての人がそうとは言えないが比較的、自身が中学生などのときに学校のやり方や教育活動に好意的、順応的だった人が多い。学校がイヤだった人の多くは、わざわざ手間のかかる教員免許を取ろうとしない。

そのため、教員として就職、赴任した後も、学校の慣習ややり方を疑問視する人が比較的少なくなる。

しかも、慣習や学校の“常識”を抜本的に見直そうとすると、手間、労力がかかるので、忙しい教員にとっては避けたいというマインドが働きやすい。

結果として、学校の昔ながらの慣習が残りやすく、その一部に世間や社会常識から見れば、奇異に映るものもある。

こうした説明内容の妥当性は別途検証されるべきだが、「メカニズム解明法」に近いと思う。

同様に、「文科省の役人や私のような外部のコンサルタントは、学校に勤めていない人だ。だから学校のことをわかっていない」というのも「カテゴリー適用法」だと思う。そうは言えないケースもあるし、外部の人間だと学校のことはわからない理由が説明されていない。

もちろん、いわゆる「現場経験」があるからこそ、見えてくることもあるとは思う。実際に子どもや保護者に接しないと、深く理解しにくいこともたくさんある。教育については、私も含めて、いろいろな人が「あーだこーだ」と意見、批判しがちだが、現場の先生たちの経験値や専門性へのリスペクトは大切にしたい。

同時に、自身の経験を過信しすぎるのも危険だ。教職員が述べる「現場経験」というのは、全国で約3万5000校(小中高、特別支援学校等、令和5年度学校基本調査)もある中のたかだか数校のことだ。

教職員も、あるいは学校外にいる人も、「オレが知っていることがいちばん」という前提から物事を捉えるのではなく、「自分の知っている世界はごく狭い」という前提に立ったうえで、お互いの知見やアイデアを持ち寄って、よりよく考えていくという姿勢のほうがよいのではないか。

「主体的で対話的で深い学び」とは、子どもたちだけではなく、大人の私たちこそ、実践していくことだ。

職員室は論理的で、対話的か?

さて以上は、学校のウチとソトの間の対話や議論の必要性についてだが、職員室の状況はどうだろうか。

いろいろな学校や場合があるので、十把一絡げに論じるのは乱暴だが、教職員からよく聞くのは、声の大きな先生が意見を述べると、職員室が「しーん」となって、そのあと意見交換や議論にならないという話。しかも、論理的で説得力のある意見やアイデアならまだしも、大ざっぱな主張や感情論が通ることもあるようだ。

例えば「この行事は子どもたちも楽しみにしていて、せっかくコロナが5類になったのだから、復活させるべき」という主張が出る。「児童生徒が楽しみにしていること=学校としてはやるべきこと」というこの主張の前提は妥当と言えるだろうか。楽しみにしていることだからといって、時間(教職員も子どもも)、人手は有限なのだから、何を選んで、何を捨てるかは考えなければならない。

あるいは「部活動は生徒指導の一環でもあるので、外部指導者や地域に任せるのは難しい」という主張がある。ここでいう生徒指導とは何かということも議論していくべきだろうが、生徒指導=教員がやるべきことと単純に当てはめると、際限なく教員の仕事は広がってしまう。また、生徒指導上の問題や悩みがあるとすれば、それは部活動だけで解決するものとは限らない。

もう1つ、別の例をあげよう。「校則をゆるめて、数年前の荒れていた頃の中学校に戻ったら、どうするんだ?」という主張がある。生徒の頭髪や服装への細かな校則が、なぜ問題行動などの抑止になるのかが説明されていない。

逆に、校則をゆるめて、例えば化粧をする生徒が出てきたとして、それが問題行動などと言えるのだろうか。もしくは、校則の必要性を述べる人の前提として、「派手な髪型や化粧=中学生らしくない」、「中学生らしくないこと=制限してよい」という「カテゴリー適用法」があるのかもしれない。

誤解してほしくないのは、率直な意見やアイデアを述べるな、と申し上げているのではない。むしろ、思い付きや素朴な疑問などが議論を深めることにつながるときもある。

ただ、アイデアや主張の背景にある論理が妥当なのかどうか、前提としている認識は正しいのかどうかなどを、少し立ち止まって吟味していくべきときもある、ということだ。意見や価値観がちょっと違うなと思う人たちとも、対話、議論することを楽しんでほしい。

(注記のない写真:Lukas / PIXTA)