ベルトコンベヤ化する学校
「学校はベルトコンベヤみたいだ」
ある副校長から聞いた言葉だ。学校では行事や生徒指導について、1つが終わったと思うと、またすぐ次のものがやってくるので、どうしても目の前のことでいっぱいいっぱいになりやすい。
それに、多感な子どもたちの集まりで、予測不能なことも多々起きる。次々起きることに順次対応となりやすく、少し立ち止まって見つめ直したり、改善策を練ったりする機会は少ない。
企業人もそれぞれで大変だろうが、学校は子どもたちを相手にしているので、マネジメントや改善ではそうとう難易度の高い組織、業界と言えると思う。先生たちはよく「なまもの」を相手にしている仕事、と表現するが、その難しさをまさに物語っている。
しかし、こうした特徴が学校の多忙をさらに悪化させる悪循環にもなっている。
かつてトヨタ自動車が世界中を驚かせたことがある。それは、工場の一従業員にベルトコンベヤをストップさせる権限を与えていたことだ。問題があれば、それをいちばんわかっている人がストップをかけて、改善案を協議する。のちに“kaizen”は世界共通語にまでなった。
長時間勤務を続けることは子どものためにならない
学校はどうだろうか。たまにはベルトコンベヤを止めて、考えられているだろうか。「子どもにとっての夏休み=教職員にとっての休日」ではないとはいえ、夏季休業中の学校は、多少ゆとりがある。2学期以降の改善策を練る一大チャンスだ。
ここでは、夏休み中の取り組みではないものの、おすすめの改善事例を紹介したい。
私が昨年度伴走型支援で関わっていた名古屋市立日比津中学校(名古屋市教委「かいぜんプロジェクト」の一環)。おそらくほかの学校も似た状況かと推察するが、当初は、教職員の反応としては「どうせ変わるわけがない」「国や市が教員数を増やすなどしてくれないと、無理だ」という、やや冷ややかなものだった。
とはいえ、多くの教職員が、忙しすぎる日々のままでいい、と思っているわけでもなかった。そこで最初に、なぜ働き方を見つめ直す必要があるのかについて、校内研修であらためて考えてもらう時間をつくった。
私からは、過労死等の健康リスクを高める問題や、働きすぎにより教職員の学びやインプットが犠牲になる影響について解説した。子どものためといって、長時間勤務を続けることは、結果的には子どものためにならない、ということを考えてもらったわけだ。
その後、日比津中学校では、改善できそうなことについて教職員でアイデア出しをしてみることにした。視点は、下記のように「やめる、へらす、かえる、充実させる」こと。
読者の中には、働き方改革や業務改善というと、カット、カットというイメージを持っている方も多いと思う。確かに、今のほとんどの学校は、業務量が多すぎるので、カットが必要なことは多い。
だが、それだけでは後ろ向きな発想になりやすいし、時短という手段が目的化しやすい。「充実させたいこと」あるいは「確保したいこと」も含めて、プラスとマイナス両方を考えることにするのは、いいアイデアだ。充実させたいことに時間と労力を残しておくためにも、減らしたり、やり方を変えたりすることも必要ということだ。
また、先生たちが、それぞれの経験から教育観、指導観、こだわりを持っていることは多い。それはそれで大切なときもあるが、働き方や業務の見直しでは、従来の価値観だけでものを見ると、アイデアが広がらなかったり、対話が深まらなかったりするときもある。
ちょっと立ち止まって、学校の当たり前を見つめ直す
日比津中では、そもそも何のための業務なのかを問い直し、個人の好き嫌いや価値観だけにとらわれすぎないことを重視した。
例えば、掃除の時間(清掃指導)は、さまざまな価値観や考え方がある。マナーとして必要最小限でよいという考え方もあれば、生徒の心を磨くうえでも大事だと考える教員もいる。
私などは、本来は自治体が予算を付けて外部委託したらよいと考えている。県庁や市役所では職員はトイレ掃除などしていないのに、なぜ、学校だけ教育的な意義を強調して、子どもと教職員にタダ働きさせるのか?
清掃は何のためなのか。教育的意義があるとしても、毎日実施する必要まであるのか。そんな観点での検討を進めた。日比津中学校では、サポートスタッフ(業務支援員)がコロナ禍からトイレ掃除などを支援してくれていることもあって、15分前後の大きめの清掃は週1回に減らして試行することにした。結果的には汚れがそうひどくなるわけでもなく、この方式で続けていけることになった。
念のために申し添えると、週1の清掃では汚れて大変という学校もあるだろうから、この事例がすべての学校で適用できるとは考えていない。注目してほしいのは、掃除などの毎日やっていて「当たり前」と思われていたことも含めて、聖域なく見つめ直したことだ。
日比津中では、清掃のほかにも、年度内に変えられることをやってみた。
例えば、生徒ノートというのは、生徒と担任との交換日記のようなかたちで、生徒は日々感じたことや、ちょっと悩んでいることをつづるものだ。これでSOSをキャッチできることもあるが、担任はコメント返しで毎日1時間くらい要することもあって、そうとうな負担ともなっていた。
生活ノートも教員間の意見が分かれるもので、日比津中でも賛否があったし、やめると保護者からクレームが来るのではないかといった心配の声もあった。だが、生徒のSOSはほかの手段でも把握できるし、必ずしも担任からの長いコメントが必要なわけではないので、簡素化してみることにした。
こうした取り組みの結果、日比津中では昨年度、平均の月当たり時間外勤務時間は半減し(同じ月で比較しているわけではないので厳密な検証ではないが)、時間外45時間以内の教員が8割以上となった。
何より、時短効果以上に、教職員も私も実感したのは「学校は変えていける」「自分たちの働き方は自分たちの力で変えていける」という教職員の手ごたえ、効力感ではないかと思う。当初「どうせ変わるわけがない」と冷ややかだった状態とは大違いだ。
急がば回れ、教職員の参画やボトムアップが大切な理由
日比津中のように、教職員の参画と対話というプロセスはとても大切だ。忙しい学校からすれば、回り道で、面倒だと思われるかもしれない。だが、たまには腰を据えて、話し合って行動することを決めることが、結果的には近道になる。
そもそも働き方改革などの学校改善には、トップダウンとボトムアップの両方が大事だ。
文科省や教育委員会において、見直しの方針を示したり、各校のみで実施が難しいことを行ったりする、トップダウン的な施策は必要だ。例えば、部活動で休養日を設ける方針を定めて、各校が遵守するようウォッチしたり、書類や手続きを見直して事務処理負担を減らしたりするのは、設置者(各教育委員会)の役割だ。
だが、トップダウンだけでは限界がある。一般の方にはあまり知られていないかもしれないが、学校裁量(校長権限)の業務も多いからだ。学校行事や部活動の数をどうするかや、生活ノートなどの生徒指導の取り組みの多くは、文科省や教育委員会が細かな縛りはつけておらず、学校裁量である(いじめ対策などは別)。
通知表でどれくらいコメントを書くか、児童生徒の課題や作品にコメントを書くか(スタンプなどで済ませるか)、学級通信を出すかどうかなども、学校裁量もしくは個々の教員の判断だ。掃除は義務付けた法令などはないが、前述のとおり学校予算が少ないので、事実上せざるを得ない状況だ。
それにトップダウンばかりでは、教職員にとっては、やらされ感が募り、推進力が高まらない。何か学校で取り組むときには、自分も参画して決めたことだという実感があるかどうかで、先生たちのやる気は違ってくる。
掃除や生活ノート、部活動などの見直しで、考え方、教育観が違っていても、ある程度対話と議論を尽くしたうえでのことなのか、それとも単に校長からやれと言われて渋々やるのかでは、その後の展開は全然違ってくる。
「いい事例はないですか?」という少し残念な質問
私が研修・講演の際に、必ずと言ってよいほど聞かれるのが「いい事例はないですか?」という質問だ。校長などからもよく聞く。
もちろん、事例を知っていたほうが参考になるし、自分たちの中の抵抗感は下がるだろうとは思う。だが、体感では8割以上、こういう質問をする人は、自分で事例を探してから質問をしているわけではない。文部科学省も事例集を出しているのだが、読んだことはないという。
意地の悪い見方をすれば、「事例はないですか?」という先生たちには、2つの可能性がある。1つは、事例を探す手間もないと感じるほど忙しい。学校の大変さには共感するのだが、ネット社会なのだし、ものの10分、15分でも参考事例は探すことはできるだろう。その時間も惜しむほど、働き方改革や業務を見直すことに優先度を置いていない、ということではないか。
もう1つの可能性は、「効果的な事例がないから、自校で働き方改革が進まないのは、仕方がないことだ」と言い訳をしたい人たちだ。各校で各自10分でよいので事例を探してきて、もしくはアイデアをリストアップしたうえで持ち寄れば、それなりに改善案は出るのに、そのちょっとした手間をかけようとしないのだ。
校長や教頭の役割とは
では、校長や教頭(副校長含む)は何をすればよいだろうか。
校長等がアイデアマンである必要はない。校長等の役割として大事なのは、改善に向けたアイデアや今の働き方について、教職員の本音や悩みを安心して出せる場をつくることだ。
ただし、話し合うだけでなく、いくつかのアイデアは実際にやってみること、お試ししてみることが必要。ワークショップをいくらやっても、行動につながらなければ、学校はいつまでも変わらない。日比津中に限らないが、やってみると、やってよかった、変えられることがあると実感できることも多い。この手応えが、さらなる取り組みへの原動力になる。
これは、教室での子どもたちも同じだと思う。学校行事などで児童生徒が主体となって動かしてみる。やれる自信を持った子たちは、さらに頑張るようになる。
また、保護者などから疑義やクレームが来たときには、校長等もつらい立場だが、管理職が率先して説明すること、教職員を守ることも必要だと思う。言い出しっぺが損をするようでは、先生たちは安心してアイデアを出せないし、誰かがやってくれたらよいのに、という他力本願な姿勢になってしまう。
何も私は学校にだけ頑張れ、と申し上げたいわけではない。教職員数もギリギリのなかで、子どもたちのためにと、踏ん張っている人もすごく多くて、文科省や財務省、国会議員には、教職員増や学習指導要領上の負担軽減などの政策を強くお願いしたい。同時に、「国が動かない限り無理だ」と学校側(教職員や校長)が早々にあきらめてしまうのも、どうかと思う。
冒頭で申し上げたように、ベルトコンベヤで次々と荷物を処理するような日々で、そういう感覚になるのは自然なことだと思う。だが、そんな日々で、先生たちは満足なのだろうか? あまり面白くないのではないか。リーダーシップや主体性という理念を子どもに対して向ける前に、教職員が発揮していける余地は、まだまだあるように思う。
(注記のない写真:maroke / PIXTA)
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