支援を強化するうちに生じた「共に学ぶ機会」の課題とは?
──国立市では、2022年6月に策定した教育大綱に「フルインクルーシブ教育」という言葉が記載されました。どのような背景があったのでしょうか。
荒西岳広氏(以下、荒西) 国立市は1976年から、一貫して「人間を大切にする」を基本理念に掲げ、人権を尊重し、多様性を認め合う平和なまちづくりの実現を目指してきました。
現在、ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)の理念に基づき市政を展開しており、障害者が地域で当たり前に暮らすこと、高齢者が地域包括支援の中で生活することを実現しています。しかし、そうした市民生活の担い手を育成する学校現場ではインクルーシブ教育が必ずしも実現できているとは言えず、教育大綱に「しょうがいのある児童・生徒もしょうがいのない児童・生徒も同じ場で共に学び、相互に成長できるフルインクルーシブ教育を目指す」という文言が入りました。
──文部科学省が掲げるインクルーシブ教育システムとはどう異なるのでしょうか。
荒西 インクルーシブ教育システムは、選択可能な多様な学びの場を整備しつつ、可能な範囲で共に学ぶ機会をつくっていく仕組みです。本市では、2013年度に文科省のインクルーシブ教育システム構築モデル事業を受託し、この方針に従って多様な学びの場を充実させてきました。また、通常学級でも質の高い支援ができるよう、専門性が高いスマイリースタッフ(特別支援教育支援員)を各校の状況に応じて1校につき2名から6名程度配置するようにしてきました。
一方で、支援を強化するうちに、とくに自閉症・情緒障害特別支援学級を選択する家庭が増え続け、23年度は小学校8校中3校目となる同学級を設置することになりました。交流や共同学習を積極的に行っていますので、共に学ぶ機会はなくなってはいませんが、日常的には、分かれて学習することが逆に増えてきてしまっている状況も見られます。
また、特別支援学校との副籍交流も積極的に進めたいところですが、密度の高い直接交流を望む家庭はほとんどありません。一部の保護者や地域住民からも、根本的なものを変えていかない限りこの傾向は続くのではないかという声が上がるようになっていました。
そこで、「フルインクルーシブ教育」という言葉を用いて、新たなチャレンジをしていくこととしました。原則、すべての子どもが同じ場で学ぶことを目指しつつ、必要に応じて個別に支援する場も選択できるようにするなど、文科省が推進する内容以上に共に学ぶ機会を増やす仕組みを構築できないか、検討を始めたところです。
橋本祐幸氏(以下、橋本) そこで、第一線でフルインクルーシブ教育を研究なさっている小国喜弘教授にスーパーバイザーをご担当いただきたいと考えたのです。大学の研究力や実践なども生かして密にご指導いただくためにも、東京大学と連携協力協定を結ぶことになりました。
学校現場は社会の縮図です。初等教育から「誰もが地域の中で生活していく」という環境につなげるべく、児童生徒同士が支え合うようなクラスづくりをしながら、学び合って成長していくことを目指していきます。
教員の「時間的・心理的余裕の創出」も課題
──国立市がフルインクルーシブ教育を掲げた意義を小国教授はどう捉えていますか。
小国喜弘氏(以下、小国) ユネスコの「Global Education Monitoring Report 2020」では、「インクルーシブ教育の恩恵について議論することは、奴隷制度やアパルトヘイトの廃止の利益について議論することと同等である」と述べられています。奴隷制度やアパルトヘイトに関する議論は「廃止すべきかどうか」という話ではなく、人間の権利の話ですよね。それはインクルーシブ教育も同じ。「障害のあるなしで学びの場を分ける隔離教育は、隔離された社会の入り口になる」というのが国連の考え方です。
そのため国連は2022年9月、日本政府にインクルーシブ教育の改善を求める勧告を出しました。これは特別支援教育をやめなさいということではなく、「通常の学級でできることを増やしましょう」ということ。国立市が目指す教育も、ソーシャルインクルージョンを前提に構想されたものであり、国連の問題意識と同じ文脈にあるといえるでしょう。
ちなみに米国をはじめ諸外国でも、教育分野は隔離が制度化されやすいこともあり、特別支援学校や特別支援学級の教育には「フル」という言葉を用いず、地域の普通学校・普通学級で学びが保障される教育には「フルインクルージョン」という言葉が使われています。
──フルインクルーシブ教育の実現に向けたロードマップはありますか。
橋本 まさに今、検討中です。年度内に取りまとめて発信できればとは思いますが、教育長が「時限を設けず十分に議論を尽くすこと」と明言しているように、丁寧な議論を優先します。ただ、計画ありきで動くのではなく、合意形成できた部分から予算を申請するなど、柔軟に取り組んでいく考えです。
──現時点で、具体的にどのような取り組みが必要だとお考えですか。
荒西 現在も支援員の数は多いですが、改めて必要な人員体制の整備を検討します。教員の意識改革も必要だと考えており、今年は市民と意見交換をする「国立市のフルインクルーシブ教育を語る会」の教員バージョンを開催したほか、全教員を対象に「子どもの多様性に即した支援のための研修」を実施しました。今後はモデル校の設定なども予定しています。
ただ、教員からは「時間的・心理的余裕がない現状で不安だ」という声もあり、時間や心の余裕の創出も課題です。また、保護者や地域の理解も必要なので、引き続き対話を重ねていきます。
学校現場ではすでに、特別支援学級で学んでいた子が通常学級で勉強する機会が増えるなど、現場の判断でフルインクルーシブな環境を整える事例がたくさんあります。そうした柔軟な個別対応を市は引き続き応援するとともに、すべての学校で当たり前に実施できるよう情報共有もしていきたいです。また本市は、幼児教育における発達支援にも力を入れていますので、うまく連携して切れ目のない個別支援も実現したいと思います。
「通常学級での差別や排除をなくす挑戦」でもある
──特別支援教育を受けている児童生徒の保護者からはどのような反応がありますか。
荒西 「個別支援はなくさないで」「特別支援学級がなくなるのが不安」という声もあり、一足飛びに推進することは適切ではないと考えています。個別支援が必要であることやその選択は尊重しつつ、通常学級の指導を充実させることで、特別支援学級を選ばなくてもいい状況をつくっていきたいです。
──小国教授はどのような形で関わっていくご予定ですか。
小国 市の仕組みの整備と、足元の課題への対応という2つの側面から、知見を提供するほか、東大の研究者と国立市をつなげていきます。また、私がセンター長を務めるバリアフリー教育開発研究センターは、大阪府吹田市やDPI日本会議(障害者当事者団体)とも連携協定を結んでいます。そうしたつながりも活用して当事者の方々と緊密に連携を取りながら、国立市での好事例をほかの自治体に横展開し、日本の学校教育がフルインクルーシブな形へと転換していくお手伝いができたらと考えています。
日本はこの10年間で特別支援学級の在籍者が約2倍に増えていますが、通常学級での差別や排除の拡大が背景にあると考えています。特別支援を望む当事者やそのご家族の多くが、おそらく通常学級で悲痛な体験をされていると思うのです。国立市の今回の取り組みは、そうした差別や排除をどうしたら制度的になくせるかという挑戦でもあると捉えており、私としてもそこにしっかり取り組みたいと思っています。
教育行政上、難しいこともあると思いますが、「国立市ならできるのではないか」という期待感があります。国立市には市民の声に耳を傾け福祉を充実させてきた歴史があり、すばらしい人材が多くいらっしゃいます。今日も市内の学校に伺いましたが、非常にやる気のある先生とたくさん出会えました。インクルーシブ教育をやりたくて国立市に転任してきた先生もいらっしゃるんですよ。
全国にも「教室にいる児童生徒がなぜ分けられなければならないのか」と現状に疑問を持っている先生は多いと感じます。実際、バリアフリー教育開発研究センターで毎月行っているインクルーシブ教育のオンライン定例研究会には毎回2000〜3000人の申し込みがあり、その約3分の1を教員の方が占めています。その先生方からは、現場の現状に疑問を持っても一人では孤独で無力だという声を多く聞きます。そういう方々にとっても、今回の国立市の取り組みは「すごい援軍が現れた」と希望を感じるものだと思います。
「人間らしい営み」を通じて不登校の子も減っていく
──教員の意識改革や、保護者や地域の理解が必要だといったお話が出ましたが、どのようなマインドが大切になりますか。
小国 欧州の学校では、教員や地域住民も当事者として学校づくりに参画し、一人ひとりが尊重されます。そんなふうに、すべての児童生徒が自分らしく学ぶうえでは、教員や地域住民が生きがいを持って関わることが大切になります。児童生徒・教員・地域住民の三者がいかにハッピーになるか。そのモデルをみんなで模索しながらつくっていくのです。
新しいことをやるときは抵抗感があるものですが、これはやっていくと楽しいですよ。私が関わった大阪市立大空小学校でもそうでしたが、インクルーシブ教育を実践すると、教員も保護者もやりがいや達成感が味わえるようになり、すべての子どもが大切にされるようになって不登校の子も減っていきます。
ただし、一人ひとりが自分らしさを持ち込めば、当然いざこざは起こります。これまでの学校現場はそうならないようルールで押さえ込んできたわけですが、ルールを作りすぎた結果、不登校や教員の精神疾患が多いといった現状があるのではないでしょうか。インクルーシブ教育は、人間同士の厄介な関係の中でお互いを深く知り合う「人間らしい営み」であるという考え方が、国立市でも大切になると思います。
橋本 夢のある取り組みにしたいからこそ、地に足を着け、関係するさまざまな方々とプロセスをしっかり議論して理解し合うことが必須だと考えています。同時に、今支援を必要としている方への対応も試行錯誤しながら進めていきたいと思っています。
荒西 私はもともと教員だったのですが、この取り組みに携わっていると、教育が本来の姿に向かっているという感覚がありワクワクします。小国教授がおっしゃるように、楽しみながら進めていけたらいいですね。この取り組みに興味のある教員の方には、ぜひ国立市に来ていただきたいと思っています。
(文:吉田渓、注記のない写真:国立市教育委員会提供)