インクルーシブ教育とは
最近インクルーシブという言葉をよく耳にするようになりました。教育の世界でもインクルーシブ教育が注目されています。というのも、国連が日本政府に対して「障害児を分離した特別支援教育の中止などを求める勧告」を発表したからです。
その論拠になっているのが、国連が2006年に採択し、日本も14年に批准した「障害者の権利に関する条約」です。この条約におけるインクルーシブ教育とは、能力やニーズによらず、すべての児童生徒を受け入れる教育システムのことを指しています。国籍や人種、宗教、ジェンダー、そして障害の有無にかかわらず、本人や家族が望む限りすべての子どもが必要なサポートを受けながら通常学級で学べる環境を整えることが求められています。
日本もこの条約を批准したことで「インクルーシブ教育システム」の構築に着手していますが、日本型「インクルーシブ教育システム」は、基本的に障害のある子どもたちを対象として想定されており、その中で「特別支援教育の推進」が掲げられています。
日本の特別支援教育は、障害の種類に応じて、特別支援学校・特別支援学級・通級による指導・通常の学級の4種類に分けられていて、「障害者の権利に関する条約」が、すべての子どもが合理的配慮の下に同じ環境で学ぶ「包摂」を理想とする一方、日本は特別な学校や学級を設置する、いわゆる「分離」になっています。
文部科学省が昨年4月に出した「特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について」という通知で、「特別支援学級に在籍している児童生徒については、原則として週の授業時数の半分以上を目安として特別支援学級において児童生徒の一人一人の障害の状態や特性及び心身の発達の段階等に応じた授業を行うこと」と明記しました。この通知によって、特別支援学級に在籍できなくなったり、反対に通常の学級で過ごす時間が減ってしまったりする子どもが出てきているのです。
こうしたことも含めて、日本は「障害児を分離した特別支援教育」であると指摘されたのですが、これに対して文科省は「日本の施策は障害者権利条約のインクルーシブ教育の実現に沿っている」との見解を示しました。分離しているのではなく、実情に即した支援を行っているということでしょうか。その是非はいったん置いておくとして、現状を見ていきましょう。
そもそも「学習面や行動面で著しい困難を示す子ども」とは
現在「通級による指導」を受けている小中学生や高校生は、全国で16万4000人超いて、過去最多を更新しています。その理由を文科省は、発達障害の子どもが増えていることや、通級指導の認知度の向上が背景にあるとみています。
発達障害の子どもが増えていることを示すデータに、2022年に行った「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」があります。それによると、通常学級に在籍する小中学生のうち、「知的発達に遅れはないものの学習面又は行動面で著しい困難を示す」とされた小中学生の推定値は8.8%で、12年に行った調査の6.5%と比較すると、この10年でその割合が増えたのは事実のようです。
でも私は、この結果に少し違和感を覚えました。というのも、そもそも著しい困難を示す子どもって、どんな子どもなのかと思うからです。
この調査での「学習面で著しい困難を示す」とは、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算する」「推論する」のうちの1つ、あるいは複数で著しい困難を示す場合を指し、「行動面で著しい困難を示す」とは「不注意」「多動性-衝動性」、あるいは「対人関係やこだわり等」について1つもしくは複数で問題を著しく示す場合を指すと書かれています。
質問の中身を詳しく見ていくと、例えば学習面では独特の筆順で書く、文章を書く際に漢字をあまり使わない、思いつくままに話すなど筋道の通った話をするのが難しい、内容をわかりやすく伝えることが難しい、初めて出てきた語や普段あまり使わない語などを読み間違える、個別に言われると聞き取れるが集団場面では難しいなど。
行動面では、同じ学年の児童生徒と比べて、大人びている、ませている、みんなから「○○博士」「○○教授」と思われている(例:カレンダー博士) 、他の子どもは興味を持たないようなことに興味があり「自分だけの知識世界」を持っているといった質問が並んでいます。
漢字を使って文章を書く……。もちろん書けるようになったほうがいいけれど、デジタル化が進んでいる中で、書くのが簡単でないなら、ICTを活用すれば補完できそうです。また、思いつくままに話す人は大人でもいくらでもいるし、いわんや行動面で、ほかの子と比べてとくに目立っていることが、困難を示すことに含まれているということは、それぞれの個性や特性を無視して均一化することが、教育のゴールになっているように見えます。この調査で明らかになったことは、困難な子どもの実態ではなく、教育の課題だと言ってもいいのではないでしょうか。
さらに、そういう困難を抱える子どもについて、どのような対応がなされているかというと、校内委員会において特別な教育的支援が必要と判断されている推定値は28.7%(高等学校20.3%)で、そこからこぼれた児童生徒は、問題があるとされながら必要な支援の検討自体がなされていないというのが実態です。これは、指導をする教員の不足も理由でしょう。
一方で、この数値は学年が上がるにつれ減少傾向を示します。これは個人に必要な「合理的配慮」が提供された結果なのか、成長とともに困難な状況は改善されていくことを示しているのか明らかではありませんが、そもそも発達には凸凹があり、幼児期に発達障害と言われたとしても、成長とともに問題なく適応できるようになるケースがあるのではないでしょうか。
通級の役割は「選択肢を増やし、困らないようにすること」
そこで、実際に通級の現場で子どもたちを見ている先生に話を伺いました。今回話を伺ったのは、不登校特例校のパイオニアとして注目される岐阜市立草潤中学校で通級を担当している藤井智子先生です。藤井先生は、通級の前身である小学校の言語通級指導教室を皮切りに、特別支援学級や小中学校での通級の指導を11年間にわたって経験されています。
今、発達障害と言われる子どもが増えている理由を、「昔なら元気な子、手がかかる子で済んでいた子が、そういう診断をされるようになったこともあるのでは」と藤井先生。手がかかる子が診断を受けることで、親は「自分の育て方のせいじゃない」と安心でき、適切な手厚い支援を受けられるようになった反面、発達障害というレッテルを貼られて傷つき悩んでいる子も多いと指摘します。
「『できないのはあなたのせいじゃない』という言葉は一見励ましているように聞こえますが、言われた本人にとっては、『自分の脳はみんなと違うから頑張っても仕方ない』という刷り込みになり、自信を失わせているのです」(藤井先生)
通級の役割はその子が生きやすくなるように、選択肢を増やし、困っていることを困らないようにすること。そういう理解は教育現場にもだいぶ広がってきているが、それでもまだ、みんなと同じようにできる訓練をする場という認識が強いのだそうです。
実際通級に通う生徒の中に、こんな事例がありました。その生徒は、文字を書くことが苦手で、宿題や明日の持ち物を連絡帳に書き写すのに手間取り、そのせいで忘れ物が多くて困っていました。そこで、「タブレットで写真を撮ればいいのではないか」と提案したところ、学校は「一人だけを特別扱いして、楽をさせることはできない」と認めなかったのです。
そこで藤井先生は担任に「字を覚えたての小学1年生なら授業の中で字の練習として書き写すことも大事かもしれないが、今回の目的は忘れ物をしないこと。それなら、そのためにどうすればいいのかを考えては?」と話し、最終的にはタブレットで黒板に書かれた課題を撮影することが許可され、その生徒は忘れ物を防げるようになったのです。
しかもこの話には後日談があり、目的から考えることに共感した特別支援コーディネーターの先生の計らいで、学校全体でこの方式を取るようになり、最終的には日直が写真を撮ってクラウドで共有する仕組みができて、情報伝達に漏れがなくなったのだそうです。
「従来、学校は苦労を美徳とし、我慢を強いて、100点を目指して足りないところを埋めるために頑張らせるところがあるけれど、目が見えにくかったら眼鏡を掛けるように、できないことがあるなら、どうすれば困らないようにできるかを考えることが合理的配慮だ」と藤井先生は言います。
その話を聞いていて、これって特別支援の中だけの話ではなく、本来はすべての子どもたちにとって必要な視点なのではないかと感じました。実際、性格や気質、精神心理疾患は遺伝による影響があるという研究がありますが、たとえ遺伝的な傾向がある子どもも適切な関わり方や環境があれば、将来像は大きく変わるというデータもあります。
別の小学校の特別支援学級の先生は、このデータを裏付けるようなエピソードを話してくれました。
自分の思うようにいかないと大声を出して泣き叫ぶ不登校気味の小学1年生がいました。その子が教室でそういう状態になった時、付き添いの母親が「周りに迷惑をかけて申し訳ない」と言うので、「この接し方はよくないということがわかったからよかったですね」と声をかけたところ、母親がホッとし、それ以来すべてを前向きに捉えられるようになっていったのです。すると子どもも徐々に変わっていき、3年生に上がる頃にはすっかり落ち着いて、通常学級に自分一人でいられるようになったのだそうです。
「どうしたらその子がそこにいられるようになるのか」を考えて
私の周りにも、こんな状態のお子さんはたくさんいます。そのときに、この子は変わっているから特別支援学級に行ったほうがいいと言われるのか、どうしたらその子がそこにいられるようになるのかを考えて関わるのかで、結果はまったく変わるでしょう。
インクルーシブ教育が目指すゴールは、誰もが互いに人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様なあり方を認め合える全員参加型の「共生社会の実現」のはずです。そのために、現場で何ができるのかを考えていくことが、大切ではないかと私は思いました。
最後に藤井先生のこんな言葉を紹介しましょう。「特別支援を受ける子が特別なのではなく、全員が特別で、それぞれに合った支援が必要なのだというマインドを教員が持てたら。学校の中にリソースはあります。私も最初はまったくわからなかったです。でも、子どもと接しながら一生懸命学びました。特別支援の子と通常学級の子は違うという無意識の思い込みを取り払い、私たち自身の心をインクルーシブにしていくことが大事なのではないでしょうか。私は不登校特例校とか、特別支援という言葉がなくなる日が来ることを願っています」。
その子が自分に向き合い、できていることもできていないことも含めて自分を好きになり、自分の「トリセツ」をつくっていくサポートをすることが自分の役割だと思っているという藤井先生の言葉を聞いて、「誰もが尊重し合える社会というゴールをみんなが共有できて、そこに向かうためにはどうしたらいいのかというところにフォーカスができたら、本当の意味でのインクルーシブ教育が実現し、そこで育った子どもたちは、誰にとっても生きやすい社会をつくる人になるのではないだろうか」と今回の取材を通して強く感じました。
(注記のない写真:msv / PIXTA)