する側とされる側、双方にデメリットを生む「お世話係」

――教員の任命による「お世話係」はなぜ作り出されてしまうのでしょうか。

「お世話をすること」を「よいこと」と捉える風潮があるからだと思います。しかし、お世話係は「お世話をする側」と「お世話をされる側」のヒエラルキーを生み出してしまう。ここが問題だと思うんですよね。

小川修史(おがわ・ひさし)
兵庫教育大学 大学院学校教育研究科 准教授
1979年京都生まれ。博士(工学)。2008年から現職。専門は教育工学で、主な専門分野はインクルーシブ教育とICT活用など。19年12月から一般社団法人日本障がい者ファッション協会CKOに就任しており、ユニセックススカートの開発者としても知られる
(写真:本人提供)

必要なことは、「お世話してあげる」という上から目線からの脱却です。教員の中にはまだ、障害のある子などに対して、脳裏に「ネガティブな存在である」という思いがある人がいる。自身も「してあげましょう」という教育を受けてきているし、昔はみんなに同じように教えることが正しかった。すべてを否定するわけではありませんが、「みんな同じ」が平等であった時代は終わろうとしているのです。

――よくない例を見聞きしたことはありますか?

もちろんです。例を挙げればキリがないほどですが……例えば、障害のある子が「人権週間です。〇〇さんと仲良くしてあげましょう」と、全校集会で先生から名前を呼ばれたことがあるそうです。その子はそのまま不登校になってしまい、10年以上の引きこもりを経験しました。これはお世話係ではありませんが、教員による「してあげる」の成れの果てです。お世話係をさせられる子も負担があるでしょうが、「やってあげて偉いね」「仲良くしてあげてすごいね」など、障害のある子に対して「してあげる」という観点から関わることを褒めるのも避けるべきだと思います。

――「してあげる」の教育は、「してもらう」人を育てる教育でもありそうです。

そうなんです。とくにおとなしく、かつ何らかの障害や困っていることがある子どもには「お世話係」がつけられやすい。「してあげましょうね」と押し付けると、お世話する側の子どもは「なんでせなあかんねん」と思ってしまうし、お世話されるほうも肩身が狭くなったり、それに慣れると今度は「なんでしてくれないの?」という気持ちになったりすることも。双方にデメリットが発生しているのです。障害の有無にかかわらず、その子の面白いところ、見てほしいと思っているところに注目してあげてほしいと思います。

配慮の要らない子どもはいない、「全員に手厚く」が正解

――教員の多忙も関係していると思いますか? 働き方改革なども叫ばれていますが、配慮の必要な子どもに向き合うには時間が足りないのでしょうか。

教員は確かに多忙です。ただ、教員にとって「子どもの声をキャッチする」ということは最優先すべきことだと思うです。コンビニの仕事に例えると、目の前でお客さんが列を成しているときにレジ打ちをせず、「今忙しいので」と品出しをしていたらおかしいですよね。とはいえ、その時間すら取れないシステムになっているのも現実ですが……。

また、子どもの声をキャッチする際には障害のある子に目が向きがちですが、そもそも「配慮の要らない子ども」はいないということも忘れてはいけません。「お世話係」を任されている子どもにも、配慮すべき点があることは少なくないのです。

――お世話をする側の子どものことですね。どういった子どもが任されやすいか、傾向はあるのでしょうか。

教員の目に「まじめでおとなしく、言うことをよく聞いてくれる子」と映る子どもは、お世話係を任されやすいと思います。ただしこうした子どもも「拒否するなどの自己主張ができない子」である場合があります。しつけが厳しく、自分の意思を表明したり発言したりすることに不利益を感じるような家庭で育ったのかもしれません。家が安心できる環境でないなら、こうした子どもにも本来は配慮が必要ですよね。先生方には誰かを特別扱いするのではなく、特別扱いしなくてもいい教室のデザインを考えてほしい。そのためには「全員に手厚くする」ことが正解なのかなと思います。

――「全員に手厚くする」とは具体的にどんなことでしょう。そのメリットも教えてください。

それはつまり、子ども全員にとって安心できる教室にすることです。子どものアイデアをやみくもに否定しない、子どもの発言を大切にするといった小さなことの積み重ねで信頼関係は構築されます。信頼関係が構築され、安心できる環境なら、子どもが自分から動いてくれるようになりますし、必然的に子ども同士の関係性もよくなりますよね。

例えばクラスに全盲の子どもがいるとしましょう。子ども同士の関係性がよければ、全盲の子どもとほかの子どもの関わりも多くなる。毎日一緒にいれば、子どもは「見えないとこういうときに困るんだ」「でもこうすれば伝わるんだな」とそのパターンを理解していく。理解できたこともまた「安心」の一要素となり、手助けすることが当たり前になっていくのです。

――子どもにとっても「コンビニでいうところのレジ打ち」と同じなのかもしれませんね。

正直、それすら意識しないと思います。だって、シンプルに目の前で友達が困っているわけですからね。全盲の子に「あっちってどっち?」と聞かれて「3時のほう」と答えたら伝わったとか、発達障害のある子への対応で「〇〇くん、絵のカードで説明したらいけたで!」とか、頼られた子どもが喜んでいるのを目にしたことがあります。これが本当のインクルーシブ教育であり、人としての本来のコミュニケーションではないでしょうか。

教員ができることは、子ども同士が友達同士でいられるこうした場のお膳立てだと思うのです。お世話する側とされる側に分けると、そこに上下関係が発生してしまうおそれもある。でも友達同士なら、障害を特別に意識することなく、自然に関わることができるのです。

欲しいのは「してあげる」ではなく、対話による「理解」

――「お世話係」を作らず、インクルーシブな教室を実現するために気をつけたいことは。

インクルーシブな教室を実現するために、まず人はそもそも多様で固有の困りごとがあると認識すること、そして子どもたちと一緒にそれを解決することが大切です。成長するために「困る」という経験は必要なことです。困りごとに先回りしてしまうと、その成長の機会を奪うことになります。まずは「困っている」ということを子どもが示せる安心な環境をつくり、その困りごとに一緒に向き合ってほしいと思います。

例えば書字に困難さのある子どもが、板書の時間が足りないと困っていた事例があります。教員は「どうしようか?」と言って、一緒に解決策を考えることにしました。2人で出した結論は「カメラで黒板を撮影する」というアイデアでした。でも、2~3カ月すると、その子は「自分だけ写真を撮るの、恥ずかしいかも」と言ってきました。

――配慮されることが平気な子どももいれば、気になる子どももいるわけですね。

そうですね。そして、みんな違うのに障害名でひとくくりにされ、当人を抜きにした配慮がなされてしまうことは多々あります。「お世話係」や「してあげる」教育も、その延長線かもしれません。ちなみに、その子に「こちらで作った板書のコピーを渡そうか?」と言ったところ、「でも、不公平だと思われたくない」と言ってきたので、板書のコピーを家でゆっくり写してくるということになりました。

――効率は悪くても、本人の意思が反映されたことがとてもよかったと思います。

そのとおりです。こうしたことは教師だけでなく保護者にも言えることで、保護者の意思で子どもの行動が決められてしまうことも多々あります。とはいえ、保護者にも安心感が必要です。保護者にも安心してもらうためには、教員から「こんなこともできるようになりましたよ」など、学校でのポジティブな情報を伝えていくことが第一歩かと思います。

――前向きな変化を感じることがあれば聞かせてください。

1つは「特別扱いせずに済む」方法の選択肢が増えたことです。GIGAスクール構想により、1人1台端末を利用できるようになりました。先に挙げた書字に困難さのある子ども例の場合、以前はカメラで黒板を写すことは「特別扱い」でしたが、1人1台端末になったことにより、「特別扱いしなくていい授業」を実現しやすくなったといえるわけです。

もう1つは、当事者の声をSNSで拾いやすくなったことで、障害や困難さに対する受け止め方が変わってきたことです。社会が「多様性」「ダイバーシティー」といったことに着目し始めたことはとても大きいですね。心がけたいのは、彼らは「してあげる」「してもらう」という関係性を求めているのではなく、単に理解してほしいのだということ。だから対話が必要だし、その子の困りごとを一緒に言語化することが重要なのです。意識はちょっとしたことで一気に変わっていくもの。教育も子育ても多様であっていいんだと思える社会を、みんなでデザインしていけたらいいですね。

(文:鈴木絢子、写真:Ushico / PIXTA)