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琉球政府官僚の「異和感」は、本当に消えたのか 沖縄の本土復帰50年を経て今思うこと

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沖縄の本土復帰から50年。琉球官僚が残した記録は、復帰の本当の意味を考えさせる。

1972年1月、訪米直前の佐藤首相(右)に4月本土復帰を訴える屋良琉球政府主席(写真:読売新聞/アフロ)

沖縄の本土復帰は、なぜ5月15日という中途半端な日付になったのか。

1969年11月の佐藤栄作首相とニクソン米大統領による首脳会談で、「返還は72年」と決まっていた。具体的な日取りについて、琉球政府は区切りがいい「4月1日」を主張したが、米側はこうみていた。

「膨大な事務量が残っていることと部隊の移動準備に一定期間が必要であることなどから(中略)、実行可能な最も早い期日は5月15日であり、それよりも前の返還は不可能」(71年12月17日、東京米大使館発国務省宛て公電)

外務省も、米軍基地に接収された土地の地主約4万人との契約締結や、その根拠になる米軍施設の境界線明確化の作業量が膨大であることなどを列挙し、4月1日は「不可能」、5月1日は「多大な困難」、6月1日は「多くの問題があるが可能」、7月1日は「実務上問題なし」と位置づけていた(72年1月5日外務省作成「沖縄返還日を決定するための諸要素」)。

最終的には72年1月の佐藤・ニクソン会談で5月15日に決まるのだが、その裏には行政現場の作業が間に合うのかという現実的な問題があったわけだ。

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