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放置は許されない政権の無責任体質 罰則がなければ違法行為も既成事実化される風潮

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安倍・菅政治は責任の概念を極小化した。無責任を放置すれば、国民のための政治は実現できない。

東北新社から接待を受けた問題で追及され辞職した山田真貴子・前内閣広報官。右は武田良太総務相(毎日新聞社/アフロ)

総務省の幹部が東北新社やNTTから接待を受け、それについて国会でうその答弁をしていたことは、第2次安倍晋三政権から菅義偉政権に至る政治、行政の劣化の一端を示している。しかし、2月の読売新聞、NHKの世論調査では内閣支持率が上昇しており、人々はこの種の不祥事には驚かず、怒りもしないことが推察される。国民に横溢(おういつ)する虚無感や諦観は腐敗を放置し、政府の統治能力をむしばむ悪疫である。

われわれが仕事をするとき、対価や報酬は重要だが、関係者の信頼を裏切らないとか、自分自身の誇りや良心に照らして恥じないことも重要な動機づけとなっている。そうした広い意味での責任感が秩序や進歩の原動力である。社会経済行動の規範である民法は、第1条で信義誠実の原則を掲げている。うそはつかない、強制されなくても約束は守るという態度が近代社会の土台を成す。民主主義では主権者と為政者の間に、権力を預託し国民の福利を増進してもらうという契約関係があるので、信義誠実は政治の世界の大原則でもある。

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