運搬中のトラックを追跡し信号待ちの隙に助手席へ突入
「私は、入社10年目の91年、生産調査部に配属になりました。当時の直属の上司が、係長になりたての豊田さんだった。おそらく、私が初の部下だったんじゃないでしょうか」
そう回想するのは現副社長の友山茂樹である。彼も『7人の侍』の1人だ。
友山はその頃、トヨタからの転職を考え、『DODA』などの転職雑誌を読みあさる日々を送っていた。章男と友山が、ともに生産調査部で働いたのは、1年間にすぎない。しかし、その短い間に、章男は友山に強烈な印象を残した。
「とにかく、変わった人だなぁと思った」と、友山は語る。
彼は章男と、高岡工場の『カンバンぶれ』の改善に取り組んだ。TPSの1つに「必要なものを必要なときに必要なだけ造って運ぶ」という仕組みがある。それを実行するための道具として『カンバン』が使われる。部品箱の一つひとつにカンバンが付けられ、部品を1つ使用するとそれを外す。組立工場は外されたカンバンを回収し、部品工場へ届ける。こうすれば、部品工場は造りすぎの無駄がなくなり、組立工場も使わない部品を置いておく無駄な場所がなくなるのだ。
だが、あるとき、高岡工場に荷を納入するトラックの積載効率が低いことを新聞にたたかれた。『カンバンぶれ』はどの程度あるのか。実態調査をしなければならない。しかし、どうやって調査すればいいのか。
すべての原点は、「現地現物」だ。章男は、これまた突飛な行動に出た。
当時発売されたばかりのモスグリーンの「ソアラ」のハンドルを自ら握り、助手席に友山を乗せて、仕入れ先を出発したトラックを追跡した。赤信号で、トラックが停止したときだった。
「俺はトラックに飛び乗って運転手に話を聞いてくるから、おまえはこのクルマを代わりに運転して、跡をつけてこい!」
何を血迷ったか、章男はそう言って運転席を飛び出し、トラックのドアをドンドンとたたいたかと思うと、そのままトラックの助手席に乗り込んだ。運転手は驚き、その勢いに恐れをなした。無鉄砲である。まるで、『突貫小僧』ではないか。
友山は、衝撃を受けた。
章男は、見ず知らずの運転手から話を聞いた。内容をメモしたペーパーを友山に見せたうえ、次のように語った。
「現地現物でしか、本当の姿はわからない。トラックの問題は、トラックに乗ってみないとわからないよね」
当時から、彼は全身『TPS人間』だった。
「頭で考える前に行動せよ、考える暇があったらやってみろと、豊田係長に教わった気がしました。平凡なサラリーマンの俺は、『逃げまくっていたな』と反省し、転職雑誌を読むのをやめました」と、友山は振り返る。
本社販売部門に冷遇された現場部隊によるTPS推進
章男はその後、92年に生産調査部を離れて営業部門に配属された。カローラ店の東海地区担当員として販売支援を経験する。さらに、販売店業務や物流の改善に取り組む。3年後の95年、章男は他部署にいた友山に電話を入れた。
「友山よ、組立工場を6時間で出たクルマが、販売店で何週間も滞留している。野ざらしで、修理しないと売れないクルマまである。トヨタのジャスト・イン・タイムは、工場の中だけなのか。営業の物流改善をやる組織をつくる。一緒にやってもらうからな」
当初は、限られた地域での物流改善だった。が、全社的な取り組みに拡大するため、翌96年、国内業務部に「業務改善支援室」が設立された。初代室長は前出の小林で、課長が章男、係長が友山という布陣だった。当時、トヨタ自動車販売とトヨタ自動車工業の合併からすでに14年を経ていたが、TPSの基本的な考え方は、自販に浸透するどころか、まったく入っていなかった。
章男がリーダー、友山が副リーダーとなり、営業分野にTPSを導入すべく、工場や生産調査部など、本社のある三河から物流や工場改善の現場のスペシャリスト約70人を集めて部隊を結成した。「チームCS(顧客満足)」だ。名古屋の久屋大通沿いに拠点のあった、国内販売の司令塔「国内企画部」に乗り込んだ。
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