日本で「勉強が苦行になった」責任はどこにあるか ヒロック初等部・蓑手章吾「学びを捉え直す」とは

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私にとっても子どもの頃から「勉強が苦行」でしたし、正直ほとんどやってきませんでした。教員になってからは、そんな自分の経験から「勉強の面白さを伝えたい」という思いで、一風変わった授業を模索してきました。昨年2月に出させていただいた『子どもが自ら学び出す!自由進度学習のはじめかた』(学陽書房)でも紹介しましたが、「同じ教室に小2の算数をやっている子もいれば高3の数学をやっている子もいて、それぞれが友達の成長を喜び合える授業」を実践してきました。ほかにも、新型コロナウイルスによる一斉休校中には3カ月間のオンライン学習を展開したり、プログラミング学習を先駆けて発信したりと、自由に楽しく先生をしてきました。

公立学校には踏み入れられない「しがらみ」がある

持ち前の運のよさもあって、かなり自由にやらせてもらってきたのですが、それでも公立学校には踏み入れられないしがらみがありました。評価があること、授業時数が決まっていること、教科書に沿わなければならないこと、足並みをそろえなければならないこと。

これらは単に文科省や教育委員会だけの責任ではなく、各ステークホルダーの事情が複雑に絡み合って生まれている現象でもあり、だからこそ難しい問題でもあります。

何より、公立小学校でいうと「子どもも、親も、学校も、教師も」教育を選べないということ。日本のある家庭に生まれた子は、満7歳の年になる4月に、地域の公立小学校の1年次に半強制的に入学させられるわけです。もちろん、私立や国立など、完全に選択肢がないわけではありません。しかし、現実に小学校の約99%は公立であり、無償ということも手伝って「公立を選んだ」という自覚はほとんどないのではないでしょうか。まだ私が公立の現場にいた頃、保護者の方のこんな言葉を耳にしました。

「私は好きこのんで、この学校に子どもを通わせているわけではない。この学区に家があるから、仕方なくこの学校に通わせているんだ。だから、普通の教育をしてほしい」

私が直接言われた言葉ではありませんが、この言葉を聞いたときに「なるほどなぁ」と感じてしまいました。親としてはそういう気持ちにもなるよな、と。

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