視覚障がい者に光を与えた父子の凄い就労支援 NPO法人六星・ウイズが働く場を提供する理由

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その後、本田宗一郎氏は、国産の二輪車や四輪車を開発して世界に打って出る道をまっしぐらに進むが、あの時のあんまさんのうれし涙が忘れられなかった穏氏は1954年、「盲人福祉研究会」という会社を立ち上げる。

スタート時の主な仕事は、折りたたみができる杖を商品化して販売することで、何度も試作をくり返し、改良した木製の折り畳み式の杖の商品化に成功する。

この商品は口コミでたちまち広がり、当時の厚生大臣から「愛の杖」という名称ももらうことができた。欧米では視覚障がい者が持つ杖は白く塗られているのが一般的だったため、日本でも白杖が主流となり、「愛の杖」という商標ブランドで、「盲人福祉研究会」の白杖が全国に普及していった。

しかし海外から大量生産で安価な杖が輸入されるようになり、会社の業績はじり貧になってくる。そんな折に穏氏が72歳で急死、白羽の矢が立ったのが、穏氏の四男である千秋氏だった。

斯波千秋氏は1972年、お父さんの穏氏のあとを継いで「盲人福祉研究会」に入社、目が見えない人たちが使う用具を開発しながら、市場を広げるため全国を営業して回った。その過程でたくさんの視覚障がい者たちと会った千秋氏にとっては、驚くことばかりだった。

視覚障がい者が働きたくても働けないことは大きな問題だった(写真:六星・ウイズ提供)

とにかく、ほとんどの人が仕事に就いていない。やりたくても、やらせてもらえるところがない。中途失明した方たちは家から一歩も外に出ることができず、一生、座敷牢のようなところですごす人もいた。

当時、全国には大きな施設に入れない障がい者たちの小規模作業所が4000カ所以上あったが、視覚障がい者を対象とするものは皆無だったのだ。

日本初の視覚障がい者のための施設

そこで1996年、斯波さんは浜松市の郊外、半田町という場所に民家を買い取り、全国で初めての視覚障がい者のための小規模授産所「ウイズ」をオープンさせる。最初の入所者は7人の視覚障がい者、そして斯波氏も入れた4人の職員でスタートした。

「ウイズ」の最初の仕事は、取材に来た記者たちの名刺に点字を印刷することだった。日本初の視覚障がい者のための施設ができたということで、新聞記者やテレビ局、雑誌社などがたくさん来る。

そこで斯波さんは記者やカメラマンの名刺を点字名刺にする、という営業をした。「1枚10円です。1人10枚の点字名刺をつくりますから、100円置いていってください』と言うと、6~7社の記者やカメラマンが名刺を置いていった。

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