「福島は営業拠点が広範囲に点在しているんです。車で何時間もかけて営業回りをしなくてはならなくて、それまでとは違った意味でハードでした。頑張りすぎて、そろそろ気力も体力も限界かも……。そう思っていた矢先に東日本大震災が起こったんです」
営業回りの車中で被災した恵子さんは、被害の大きかった浜通り方面へ向かう最中だった。実際に揺れの大きさはそれほど体感しなかったものの、目の前をゴロゴロと転がっていくトラックのタイヤ、道路に散乱する屋根瓦を見て「ただごとではない」と悟ったという。そのままひとまず市内のホテルに1泊した。
「翌日テレビで原発事故を知りました。このまま福島にいるわけにはいかない、と直感しましたね。営業所が一時閉鎖になるということもあり、福島支社の仲間とともに東京へ向かうことを決断。大渋滞の中18時間かけて東京へ向かい、そのまま東京で実家暮らしをしていた夫の元に身を寄せることになりました」
吹き出した「夫婦間格差」への不満
夫の家族とも良好な関係を築きながら半年間、東京本社で勤務をしたのち、恵子さんは再度、福島へ。しかし原因不明の体調不良に見舞われ病院を転々としていた矢先、妊娠が発覚した。夫婦にとって、まったくの想定外な出来事だったという。
「今思えば入籍から3年も経っていましたし、子どもができても不思議はなかったんですけどね。ただ、どこかでひとごとのように思っていたんです。家族計画もまったくしていなくて、婦人科に同行してくれていた夫と2人、途方に暮れながら診断結果を聞いたことをよく覚えています」
呆然としながら婦人科を出たところで夫が放ったのは「子ども、堕ろそうか」というショッキングな一言だった。「僕にはまだ父親になる資格はない」と落胆する夫の話を聞いているうちに、それまで見えてこなかった夫の葛藤があぶり出された。
「夫の父親は大手企業の役員を務めていたんですが、夫は父親の中に、“父とはこうあるべきだ”という理想像を持っていたみたいなんです。それに対して、当時の彼の収入は250万円。親会社と関連会社ということもあり、私と200万円の年収の差がついていました。そこに、夫のコンプレックスが隠されていたことに、当時の私はなかなか気づけなかったんです」
話し合いを重ねた結果、子どもはやはり産もう、という結論に達した。恵子さんもそれを機に東京本社への異動届けを出し、2012年には帰京、家族3人で暮らせるアパートを借りた。仕事内容も、激務の営業職から、比較的ゆとりを持てる内勤の職に変わることになった。そしてその年の秋に無事出産。夫も満面の笑顔で祝福し、家事・育児にも積極的に参加してくれた。1年半の育休後、恵子さんは営業職へ復帰。
「時短で働くようになった途端、仕事の効率が格段によくなって。みるみる評価も上がり、チームリーダーを任せられるようになったんです。改めて『仕事、楽しいなあ』と実感していました。そんなタイミングで、夫は仕事の低迷期に突入していきました。同期の出世、上がらない給料……。深夜の2時、3時まで残業して、自分を追い込んでいるようにも見えました」
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