観光が好調な小田原、知られざる歴史と文化 「ういろう」の元祖は小田原にある
外郎家は、室町時代に中国大陸から日本に帰化した家系だ。元王朝(1271~1368年)に“礼部員外郎”という身分で、医薬外交、教育者として仕えていた陳延祐(ちんえんゆう)が、元王朝が明王朝に滅ぼされたときに日本に亡命し、日本における外郎家の初祖となった。外郎という名字は、延祐の中国における身分であった“礼部員外郎”から取ったものだ。
延祐は医術に長けていたため、当時の室町幕府将軍、足利義満から再三にわたり京都に来るよう招きを受けたが、「二朝に仕えるのは義に欠く」として応じず、後に、息子である陳外郎大年宗奇(そうき)が京都に上った。
この大年宗奇が処方する薬は、たいへんな効き目があり、特に、今も外郎家に一子相伝で伝わる銀色の粒状の薬は、朝廷や幕府の人々に重用され、天皇から「透頂香(とうちんこう)」という名を授かる。
これは、当時の人々が烏帽子(えぼし)の中に、この薬を紙に包み携帯していたところ、夏の蒸し暑い日に、良い香を放っていたことに由来するという。
また、大年宗奇は大陸の言葉に堪能であったことなどから、明から渡来した外交使節団の接待役をおおせつかった。
その際、薬の原料として、南方より仕入れたサトウキビから抽出した黒糖を米粉と蒸して、もてなし用に作った菓子が、後に「ういろう」と呼ばれるようになる菓子の原点だ。
当時の貴族の栄養剤として使われていた黒糖を原料とする菓子は、“薬屋だからこそ作れた菓子”ということができる。
新天地を求めて「小田原」へ
その後、朝廷から「十六の花弁の菊」と「五七の桐」の2つの家紋をいただき、医者としては異例の二位の官位まで授かった外郎家だが、応仁の乱(1467~1477年)の勃発により、転機が訪れる。
乱により、京都の街は荒廃し、薬を作る環境を維持することが難しくなったのだ。このとき、新天地として見いだしたのが小田原だった。
その頃、小田原を中心に東国に新しい国を造ろうとしていたのが、後に北条早雲と称される伊勢新九郎(1432~1519年)だ。
新しい国には、民が安心して住めるよう食料や防衛施設に加え、医療が必要だが、早雲が目をつけたのが、京都で、医術をもって朝廷や将軍に仕える外郎家だったのだ。
医療を求める早雲と、新天地を求める外郎家、双方の利害が一致し、早雲の招きに応じて、宗奇のひ孫に当たる外郎藤右衛門定治が小田原に移住したのが、16世紀の初めのことだ。
以後、500年以上にわたり、外郎家は小田原の盛衰とともに歩み、さまざまな話が残るが、「ういろう」を語るうえで特筆すべきは、江戸時代の人気歌舞伎俳優、二代目市川團十郎(だんじゅうろう)にまつわるエピソードだ。
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