スマホ時代、本を読まなくなった子どもたち

「スマホやゲームに夢中になって、子どもが本を読まなくなった……」

そんな現状に不安を覚える保護者は少なくありません。

神田直樹
神田直樹(かんだ・なおき)
1998年生まれ。中学生のときに東大を目指すことを決め、定時制高校にも塾にも通わず、通信制のNHK学園を経て、独学で2018年東京大学文科Ⅰ類合格(2次試験は首席合格者と3点差で合格)。東京大学法学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、2023年に東大生がつくる国語特化のオンライン個別指導「ヨミサマ。」を立ち上げる。現在、東大生講師150名、生徒数は900名(延べ)を超える規模に成長。著書に自分自身の独学ノウハウを詰め込んだ『成績アップは「国語」で決まる!』がある(X:@Kanda_Overfocus)
(写真は本人提供)

実際にベネッセ教育総合研究所の調査によれば、小中高生の1日あたりの平均読書時間は、2015年の18.2分から2022年の15.2分に減少しました。読書時間と引き換えに増えたのは、スマホやタブレットに向き合う時間です。生まれた頃からデジタル機器に囲まれてきた“デジタルネイティブ”の彼らにとって、これらはもはや「生活の一部」なのです。

国語力に特化した個別指導塾の代表として、これまで数千人の小中高生と保護者たちと接して強く感じるのは、彼らの悩みが「質的に変化してきた」ということです。

例えば最近は、保護者から「子どもが長い文章を正確に読み取れない」「人の気持ちを理解することができない」という悩みを聞くことが増えています。この原因の一部が、「ネットの使用時間の増加」とそれに伴う「読書時間の減少」であることは明白でしょう。

デジタルネイティブの子どもたちが自由時間の多くを費やしている情報は、どれもいわゆる「ショートフォームコンテンツ」です。Instagramの「リール動画」やYouTubeの「ショート動画」はいずれも最長3分ですし、SNSでもX(旧Twitter)の「ポスト」の上限は原則140文字です。

短時間で消費できるようなコンテンツに慣れ親しんだ子どもが、いきなり何千字もある文章題と対峙しても、正確な読解ができないのは必然でしょう。

娯楽が多様化した今、「読書」に戻れないのも当然

しかし、国語力に悩む子どもたちの話を聞いていると、彼らの言い分にも理があるのです。

「YouTubeのほうが見るのもラクだし、楽しい」
「ゲームなら、友達とも話が通じる」

たしかに、娯楽が多様化した今日、子どもたちに共通の話題があるとすれば、YouTubeを通して得られる情報やゲームの話に限られてくるのでしょう。楽しいうえに、友達との会話の種にもなる娯楽は、子どもたちにとっては“必修科目”なのです。

その一方で、今の子どもたちから見た「本」の存在感は、保護者世代が10代だった20〜30年前と比較して相対的に減少しているようです。

そもそも、子どもに「本をもっと読みなさい!」と注意する大人ですら、今となっては読書よりスマホを眺める時間のほうが長い人がほとんどです。電車の中を見渡しても、本を読んでいる大人は少なく、その多くは子どもと同じくスマホに集中しています。情報端末がインフラの一部となった現代において、スマホは年代を問わず、生活と切っても切り離せない存在なのです。

だからこそ私は、本を読まない子どもを叱り、娯楽をまるっきり転換させて無理に本を読ませるよりも、子どもが夢中になっているものを学びのツールにするほうがずっと建設的だと考えています。

そこで、読解力を伸ばす最高のツールとして私が推奨するのが「ゲーム」です。とはいえ、やはり何のゲームでも良いわけではありません。国語力を伸ばすのにうってつけのジャンルがあるのです。それが、俗に「ノベルゲーム」と呼ばれるものです。

ほとんど本を読まなかった私を支えた「ノベルゲーム」

実は私自身、小中学生の頃はほとんど本を読みませんでした。それでも、語彙力や論理力は同年代と比べて群を抜いていた自負があります。その理由をよくよく考えてみると、ノベルゲームに人一倍真剣に打ち込んでいたおかげだろう、という結論に行き着くのです。

では、「ノベルゲーム」とはいったいどのようなものなのでしょうか。ノベルゲームは、物語やイラストを軸に進行し、プレイヤー自身の選択によってその後のストーリー展開が分岐するゲームの総称です。ゲーム自体はイラストや音楽に彩られていますが、プレイの根幹にあるのは「文章読解」と「意思決定」です。

「文章読解」の側面では、プレイヤーは登場人物の会話や心情描写、さらには作品全体を貫く世界観を丁寧に読み解く必要があります。伏線や比喩表現、登場人物の言い回しの微妙な違いが物語の理解に直結してくるため、ここでは解釈力や想像力が多分に要求されます。

次に「意思決定」の側面では、プレーヤーは上記の「物語の理解」を基に、頻繁に選択を迫られます。1つひとつの選択が無数の分岐を生み、後の展開や最終的な結末を大きく左右していきます。

つまりノベルゲームのプレイヤーに要求されるスキルは、瞬発力やボタンを連打する速さではなく、もちろんログイン時間/回数や課金額でもなく、読解力と判断力なのです。

とくに私が熱中したのは『パワプロクンポケット』シリーズで、一見すると野球ゲームのように思えるのですが、実はノベルゲーム形式で選手を育成することがメインのゲームでした。

このゲームでは、主人公が「練習をするか/友人と遊びに行くか」という細かい行動ですらプレイヤーが選択します。練習を選ぶと、野球能力は向上するものの疲労がたまります。一方で友達と遊びに行くほうを選ぶと、例えば偶然おばあちゃんを助けることになり、お礼に疲れを取るのに役立つドリンクをもらう、などのイベントが起こります。

このような日常的な選択にはじまり、果ては恋人と破局するか否かという究極の問いや、間違えたら世界が滅亡するような問いを投げかけられる場面もあり、これらをクリアしていった末に、本当に強い野球選手が出来上がるのです(このように書くと少し荒唐無稽なゲームですが……)。

『パワプロクンポケット』以外にも、『逆転裁判』や『シュタインズ・ゲート』など、さまざまなノベルゲームを楽しみました。いずれにしても、主人公を取り巻くキャラクターたちの過去や人間関係を読み解いていき、次にどんな行動を取るべきかをつねに考えさせられる。これが気付かぬうちに、国語の勉強になっていたのです。

私が成績を上げる勉強法を紹介する際にも、おすすめとして紹介する作品数は本(漫画を除く)よりノベルゲームのほうが多いほどに、ノベルゲームは私の読解力ひいては学力全体の礎になってくれました。

「本を読め」と言う前に…ゲームと読書は対立関係にない

もちろん、読書には固有の大きな価値があります。しかし、十分な読解力を持たないまま本を読んでも、文字をただ追いかけるだけになりかねません。その結果、「ページをめくっていただけ」で終わってしまうこともあるのです。

一方で、ノベルゲームは漫然と読み終わることが許されない仕組みになっています。たった一度選択を誤るだけで、その後の展開が大きく変化し、望まない結末(バッドエンド)に至ってしまうこともあります。だからこそ、プレイヤーは登場人物たちの一言一句に細心の注意を払い、言葉のニュアンスや前後の文脈を的確に読み取る必要があるのです。

さて、現在教育現場で重視されている「アクティブラーニング」は、

①情報を読み解く
②主体的に選択する
③結果を受け取り改善を行う

というサイクルでの学びです。

この点ノベルゲームも、①テキストを読み取り、②自らの意思で選択し、③その結果を受けて次の選択につなげる、という循環構造になっており、これはまさにアクティブラーニングのあり方そのものなのです。選択と結果を往復するうちに、「言葉と行動の関係」や「もし別の選択を取ったらどうなっていたか」を考えるようになり、自然と論理的思考力も養われます。

子どもに「本を読みなさい」と言うのは簡単です。しかし、娯楽にあふれた現代の子どもたちにとって、自由時間の大半を読書にささげるのは現実的ではありません。だからこそ、保護者ができる工夫としては「ゲームの時間の一部をノベルゲームに振り分ける」ことではないでしょうか。たったそれだけで、「遊んでいただけのはずが、読解力が上がっていた」という成功体験を獲得できるのです。

そうして読解の基礎を身に付けた延長線上に、素敵な読書体験が待っているはずです。ゲームと読書を、「対立関係」ではなく「補完関係」にあるものと捉えることによって、国語力を身に付けるチャンスは膨らんでいきます。

「国語力」とは、単なる語彙力と同義ではなく、相手の意図を理解し、自らの考えを深め、表現する力を指します。その意味でノベルゲームは、遊びの形を借りた国語の勉強に十分なりえます。子どもがゲームに熱中する姿を嘆くのではなく、そこに潜む勉強の要素をいかに拾い上げて導いていくか。これが、今日の保護者に求められる視点ではないでしょうか。

古くは平安の人々が和歌で言葉を磨いたように、現代の子どもたちはノベルゲームを通じて「読む力」と「選ぶ力」を養うことができます。読書とゲームを二者択一とせず、それぞれの強みを活かす。その柔軟さこそ、これからの学びに必要なものだと私は考えます。

(注記のない写真:マハロ / PIXTA)