人類学で当たり前をひっくり返す「教える・教えられる」を超えた学びとは 「専門家が知識を伝授する」近代の方法は限界?
インゴルドは、移動には「輸送」と「徒歩旅行」という2種類のやり方があると述べています。輸送は、モノや人をAからBへ効率よく運ぶというもの。目的論的な移動方法ですね。一方、徒歩旅行はそぞろ歩きやぶらぶら歩きです。
狩猟では「どこそこに行けば獲物が取れる」といった目的論思考はあまり役に立ちません。それよりも、ぶらぶら歩いて足跡を見つけたら、そこで集中的に探してみるというやり方をします。
私たちは今、地球規模の気候変動の影響を受けた環境的な危機だけでなく、貧富の差や戦争といった社会的な危機をも含む複合的な危機に直面しています。気候変動を食い止めるべく二酸化炭素の排出量目標値を決めて努力を続けたとしても、さまざまな要因が刻一刻と変化する中、それが将来的にどうなるかはわかりません。
われわれの世界、現代社会は「不確実性」に支配されていますから、ターゲットを決めて一直線に向かっていっても、すんなりと解決するとは限りません。今こそ「ぶらぶら歩き」が必要なのではないでしょうか。
学校教育や教育はどうしても、「いい学校に行く」「いい会社に就職する」という目的を持って立派な人生を送らなければという目的論になります。けれど、いろいろ試してみて、失敗しても立ち上がる経験もしなければいけません。
また、1つの世界にどっぷり浸かって問題を解決しようとしてもなかなかうまくいかないもの。ターゲットを決めて目的論で突き進むだけではなく、ぶらぶら歩きで出会った「いいな」と思うものに向き合い、自分なりのやり方を探っていくこと。それが、硬直した価値観や世界を“解きほぐす”ことにつながるのではないかと思います。
人類学の視点で“解きほぐ”してみても、現実が大きくガラッと変わることはないでしょう。それでも大切なのは、教育に携わる人が、想像力を持って自分たちの目の前にある現実を見つめつつ、それとは違う現実、多元的世界(プルリバース)があることに気づくこと、その世界に触れること。
それによって変容していく自分自身を生徒や周りの人々に見せることこそが、教育なのではと私は思っています。決まったことを教えるだけでは、世界は動いていきません。動いている世界でどうするか、想像力と創造性を持って考えることが大事。これが、人類学がお届けできるメッセージです。
(文:吉田渓、注記のない写真:FatCamera / Getty Images)
東洋経済education × ICT編集部
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