学校に行かなくなる狩猟民の子どもたち

人類学者である奥野克巳氏には毎年実施しているフィールドワークがある。それは、マレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の熱帯雨林に住む狩猟民プナンの人々と一緒に過ごすというもの。

プナンはもともとボルネオ島の熱帯雨林の中を遊動しながら暮らしていた。1980年代初頭に行われたサラワク州政府の定住化政策により、ブラガ川の上流域に暮らすようになったが、それ以降も森の中に頻繁にキャンプを張って、狩猟を続けている。奥野氏はそのプナンの社会に2006年から1年間滞在し、2007年以降は年に2回訪れている。

――ご著書『ひっくり返す人類学』の第1章で学校教育を取り上げていますが、奥野先生が学校教育に関心を持ったきっかけを教えてください。

きっかけは3つあります。1つは2006年にプナンの人々と1年間暮らしたとき、学童期の子どもたちがずっと狩猟キャンプや居留地をうろうろしていることに気づいたことです。「学童期の子は学校に行くもの」と思っていましたから、なぜ学校に行かないのか不思議に思いました。

1980年代初頭にマレーシア・サラワク州政府が定住化政策を実施し、ブラガ川上流域に小学校を作りました。プナンの子どもたちも毎年数十人が小学校に入学するものの、その多くが小学校低学年には行かなくなってしまうのです。それを知って、学校とはいったい何か、もう一度根本的なところから探ってみたいと思いました。

2つ目は、文化人類学の研究者・原ひろ子先生の著書『子どもの文化人類学』です。私はこの本の復刻版の解説を書いているのですが、その本も1つのきっかけですね。この本には、原先生がカナダの狩猟採集民であるヘヤー・インディアンの社会でフィールドワークを行ったときのことが書かれています。原先生はヘヤーの人々の生き方について「教えていただく」という気持ちで訪れたものの、ヘヤーの社会には「教える・教えてもらう」という言葉や概念がないことに驚いたそうです。

3つ目は、最近、人類学者のティム・インゴルドの著書『世代とは何か』を翻訳したことです。この本の第7章では教育について書かれています。インゴルドには教育に関する著書があり(未邦訳)、学校教育に関する彼の見方に影響を受けたというのがあります。

学校に通わない狩猟民の子どもはどう学ぶのか

――プナンの子どもたちは学校に行かなくなるとのことですが、どのように物事を学んでいくのでしょうか。

学校に行くのが当たり前の世界で育った私たちと、プナンやヘヤーの人々の違いを一言で言うと、農耕民と狩猟民の違いだということができるかもしれません。農耕民社会は所有、すなわち個人所有が基本ですが、狩猟民社会は共有、すなわちシェアリングエコノミーが基本で、誰かが獲物を獲ってきたら共同体の人たち全員に分け与えます。

みんなで生き残ろうとする考えのもとで暮らしているため、個人所有の概念が社会的には忌避されるのです。

立教大学 異文化コミュニケーション学部の奥野克巳教授
奥野克巳(おくの・かつみ)
立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授
1962年滋賀県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。人類学の研究者として東南アジア・ボルネオ島の先住民とともに過ごし、フィールドワークを行っている。『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、後に新潮文庫)、『ひっくり返す人類学 生きづらさの「そもそも」を問う』(ちくまプリマー新書)など著書多数
(写真:本人提供)

この違いは知識や技術についても言えます。私たちにとっては知識も個人が所有するものであり、それを土台として、専門家集団がいる社会を築いています。例えば法律の知識のある個人が専門性を獲得していきますし、学校でも専門家である教師が知識を蓄え、それを子どもたちに伝授します。

一方、狩猟民社会では知識も技術も個人が習得するものではなく、みんなでシェアするもの。誰かが多くの知識や技術を持っているのではなく、みんながジェネラリストなのです。そのため、「教える・教えてもらう」という発想が生まれないのです。

子どもや若者は上の世代の狩猟についていき、さまざまな知識や技術を身につけていきます。親と狩猟キャンプで過ごす中で、狩猟のやり方や獲物の捌き方などが自然とストックされていく。彼らにとっては、いわば森が学校なのです。

私たちはふつう生きていくための知識や技術を若い世代に「伝授する」と捉えますが、「そういうことをしなくても共有されていく」というのがプナンやヘヤーの人々のやり方です。そのため、“師弟関係”が生まれないのです。

教える・教えられる以外のやり方もある

――では、「教える・教えられる」という概念や言葉がないプナンやヘヤーの人々はどのように学んでいくのでしょうか。

前出の原先生がヘヤーの子どもたちの前で折り紙の鶴を折ったとき、子どもたちは「(折り方を)教えて」とは言わずに、原先生が折る姿を見て、自分でやってみたそうです。もちろん、最初はうまくできないのですが、やりながら自分で修正を加えていく。

彼らはこれを「教えてもらった」ではなく「自分で覚えた」と言うのです。子どもたちは折り紙と対話しながら鶴を折る。それを繰り返すことで覚えていく。それはプナンも同じです。

今でこそ、学校で知識を学ぶ、専門知識のある人に知識を教えてもらうという考え方が世界中に浸透していますが、人類史で考えると比較的新しいものです。「人類の古いやり方は必ずしも『教える・教えてもらう』の二項ではなかった」ということを、人類学の観点からは言えるかもしれません。

――学習指導要領「生きる力」では主体的・対話的な学びの重要性が示されています。子どもたちの主体性をどうすれば引き出せるのかと日々考えている教育関係者も多いと思います。

森の中で暮らしていくのであれば、因数分解や外国語といったパッケージ化された知識を教えてもらう必要はありません。他方、私たちが暮らす高度に資本主義が進んだ近代社会においては、専門家集団を作って責任ある大人が知識を教えるのが一番いいやり方だと思われてきました。

しかし、学校教育が硬直化している状況がある今、これでは立ち行かなくなるという問題意識が広がってきているように思います。私自身も大学教員として約25年間、教育に関わってきました。今は制度や規制が肥大化し、その中に閉じ込められた教育のどこから手をつけていいかわからないという状況なのではないでしょうか。

近代社会で子どもが「主体的」になれない理由

――学校教育に関するものの見方を人類学の視点から“ひっくり返す”ヒントはありますか。

人類学の考え方を採用するならば、「植民地時代の宗主国や先進国は非西洋の国々や先住の人々にこれまで一方的に自らの考え方を押し付けてきたが、今は逆に先住民の思考や古いやり方に学校教育や学びに関するヒントがある」と考えたほうがいいのではないかということでしょうか。

インゴルドの『世代とは何か』では、近代社会は働き盛りの「現役世代」や「高齢者世代」「若い世代」と人々を世代で分け、上の世代が若い世代に教育を行うという構造を作り上げてきました。

しかし、その枠組みの中で学校教育が行われている限り、子どもの主体的な世界との関わりは実現できないだろうと彼は述べています。また、学校教育を通じて大人が子どもに知識を授けて理解度を深めさせるという考え方ではなく、教師と生徒が「協働する」ことの重要性を唱えています。

それはどういうことなのか、プナンを例に考えてみましょう。プナンの居住地には水道がありません。そのため一日一回老若男女、家族みんなで水浴びと洗濯を兼ねて近くの川に行きます。お母さんは洗濯をし、子どもはその横で洗濯を手伝ったり、水浴びをしたり、泳ぎの練習をしたり、泥遊びをします。おじいさんたちはそれを見守っているのです。

このように、プナンの人々は世代の区別なく結び合いながら、子どもたちも「どう泳ぐのか」「どうやると効率よく洗濯できるか」などを自然と学んでいくのです。

子どもを独立した“次なる世代”と捉え、それに対して大人が知識を伝授するという近代社会のやり方は限界を迎えている。だとすれば、それを突破するためには、単に子どもの主体性を取り戻そうとするだけでは効果はないのではと思います。

資本主義の「目的論思考」を解きほぐそう

――ただ、貨幣経済の中で生きるには、就職や学歴、それに伴う受験などを通らざるを得ないという側面があります。こうした世界で生きる中で、硬直した考えや価値観をどうすれば解きほぐすことができると思いますか。

私たちは「目的論思考」に縛られすぎているのかもしれませんね。資本主義社会を生きるうえでは仕方がない面もありますが、「お金を稼がなければ」「少しでも偏差値の高い学校に行っていい会社に就職しなければ」といった“目的”がわれわれの思考の根本にある。そのことに気づいて、それでいいのかを考えてみることが大事なのではないでしょうか。

インゴルドは、移動には「輸送」と「徒歩旅行」という2種類のやり方があると述べています。輸送は、モノや人をAからBへ効率よく運ぶというもの。目的論的な移動方法ですね。一方、徒歩旅行はそぞろ歩きやぶらぶら歩きです。

狩猟では「どこそこに行けば獲物が取れる」といった目的論思考はあまり役に立ちません。それよりも、ぶらぶら歩いて足跡を見つけたら、そこで集中的に探してみるというやり方をします。

私たちは今、地球規模の気候変動の影響を受けた環境的な危機だけでなく、貧富の差や戦争といった社会的な危機をも含む複合的な危機に直面しています。気候変動を食い止めるべく二酸化炭素の排出量目標値を決めて努力を続けたとしても、さまざまな要因が刻一刻と変化する中、それが将来的にどうなるかはわかりません。

われわれの世界、現代社会は「不確実性」に支配されていますから、ターゲットを決めて一直線に向かっていっても、すんなりと解決するとは限りません。今こそ「ぶらぶら歩き」が必要なのではないでしょうか。

学校教育や教育はどうしても、「いい学校に行く」「いい会社に就職する」という目的を持って立派な人生を送らなければという目的論になります。けれど、いろいろ試してみて、失敗しても立ち上がる経験もしなければいけません。

また、1つの世界にどっぷり浸かって問題を解決しようとしてもなかなかうまくいかないもの。ターゲットを決めて目的論で突き進むだけではなく、ぶらぶら歩きで出会った「いいな」と思うものに向き合い、自分なりのやり方を探っていくこと。それが、硬直した価値観や世界を“解きほぐす”ことにつながるのではないかと思います。

人類学の視点で“解きほぐ”してみても、現実が大きくガラッと変わることはないでしょう。それでも大切なのは、教育に携わる人が、想像力を持って自分たちの目の前にある現実を見つめつつ、それとは違う現実、多元的世界(プルリバース)があることに気づくこと、その世界に触れること。

それによって変容していく自分自身を生徒や周りの人々に見せることこそが、教育なのではと私は思っています。決まったことを教えるだけでは、世界は動いていきません。動いている世界でどうするか、想像力と創造性を持って考えることが大事。これが、人類学がお届けできるメッセージです。

(文:吉田渓、注記のない写真:FatCamera / Getty Images)