水辺での子どもの行動を変える「ライフジャケット体験」

2007年に「ライジャケサンタ」として「子どもたちにライジャケを!」という活動を開始した森重裕二氏。水難事故防止のため、全国の子どもにライフジャケットの着用を呼びかけている。

拠点とする香川県では、自治体や学校の金銭的負担を伴わずに子ども用ライフジャケットを整備する「香川モデル」を推進。県内企業からの寄付により、県教育委員会の主導で「レンタルステーション」が開設されている。在庫は300着以上あり、県内の学校や団体で申請すれば、大人も子どもも無料でライフジャケットを借りることができる。

「ライフジャケットの必要性が少しずつ認知されるようになり、さまざまなメディアも取り上げてくれるようになってきました。ただ私への取材の多くは、海や川のレジャーが本格化する7、8月に声がかかります。ありがたいことですが、本当に子どもの水難事故を防ぐには、そのタイミングでは遅いのです」

森重裕二(もりしげ・ゆうじ)
2019年春、約20年続けた小学校教員を退職し、現在は「庵治石細目『松原等石材店』」の3代目として修業中。カヌーや渓流釣りなど水辺での遊びに親しんできた経験などから、ライフジャケット普及を訴える「ライジャケサンタ」としても精力的に活動している。子どもたちにより伝わるよう、絵本『かっぱのふうちゃん ライフジャケットでスイスイ』(子どもの未来社)も著した
(写真:森重氏提供)

プール授業を行う学校の多くは、6月初旬にプール開きを迎え、7月中旬ごろには授業を終えてしまう。そのあとに「学校のプールでライフジャケット体験を」と訴えても、なかなか実践にはつながりにくいのが現状だ。近年は4月ごろから真夏日になることも増えており、5月の連休中にも水難事故が発生する。子どもたちが水辺に遊びに行く前にと考えると、やはり夏が来てからでは遅いのだ。

森重氏は「ライジャケサンタの活動をすればするほど、これは学校や子どもだけのことではなく、社会全体の問題であると気が付きました」と言う。そう感じる課題の一つが、メディアのあり方や世間の受け止め方だ。

暖かくなってくると、とくに子どもだけで移動できる思春期世代の事故が増える。「足を滑らせた」「深みにはまった」という報道に、「不注意だ」と感じる人もいるかもしれない。あるいはもっと幼い子どもが事故に遭えば、「周囲の大人は見ていたのか」という点が議論されがちだ。だが森重氏は、注目すべきはそうしたことではないと言う。

「大人だって不注意で転ぶことはあるし、人は溺れるときは本当に静かに溺れます。水飛沫も音もなく、すぐ近くにいたって気づかないほどです。足がつかない水深にいるとき、立った姿勢で、自分の体がどれぐらい水面から出るか知っていますか? 多くの人が『首から上ぐらい』と答えますが、実際は額から上ぐらいのほんのわずかな部分だけ。そういうことを多くの人は知りませんよね。事故が起きてしまったときに考えるべきは、彼らが水辺の危険についてどんな教育を受けてきたのか、あるいは受けてこなかったのかということではないでしょうか」

「これまで使ってこなかった」導入を阻む大人の心理的障壁

森重氏がライフジャケット着用を呼びかける活動を始めた当初は、「水泳の授業は、もしものときに備えて泳力をつけるためのもの。ライフジャケットを着けるなんて」と言う人もいた。だが実際にライフジャケットを体験した子どもは、「ライフジャケットを着ければ体が浮く」「着けなければ人間の体はそれほど浮かない」ということを実感する。この経験が、水辺での子どもたちの行動を変えると森重氏は語る。

もう一つ、森重氏がライフジャケット普及を進めるに当たって、「社会全体の課題」だと感じたことがある。製品の供給や安全性をめぐるルールが整っていないことだ。

「2021年には県内の小学校に150着のライフジャケットが寄贈されたのですが、それだけで2つの大きなメーカーの在庫がなくなってしまったのです。2012年、愛媛県西条市の幼稚園児が川遊び中に流されて亡くなる事故がありましたが、園の責任を問う裁判の判決では『救命胴衣を着けていれば助かった可能性が高い』と認定されました。つまり、監督者は子どもにライフジャケットを着けさせなければならないことが示されたわけです。それなのに、いざ準備しようとするとそれができない。そもそも流通量がまったく足りていないのです」

さらに、ライフジャケットの耐用年数や規格には、メーカーも明確な答えを持っていないと言う。船舶で使用する際には規格の定めがあるが、子どもが水辺で着る場合にはルールがない。「うるさく言っていたら、メーカーとともに規格を作る委員会のオブザーバーを、私が務めることになりました」と森重氏は笑うが、ライフジャケットはそれだけまだ「特別なときに着けるもの」と認識されているのだろう。そのため、香川モデルのように費用負担のない形にしても、他の多くの自治体ではそれを利用しようとしない。

「ライフジャケットはかさばるものなので、保管場所に困るとか、誰が管理するのかといった問題もあるのでしょう。でも一番の理由は、『今までやったことがない』『これまで使ってこなかった』という教育現場の心理的障壁です。大人の原風景の中にはライフジャケットがないし、水難事故への危機感もあまりないのだと思います」

森重氏が学校のこうした姿勢を具体的に想像できるのは、自身も2019年まで小学校の教員だったからだ。現在は妻の実家である石材店を継ぎ、ライジャケサンタとの二足のわらじで、忙しい日々を送っている。

「教員時代は筆舌に尽くしがたい苦労もありましたが、現場を離れるときには泣きました。決して後ろ向きに教員を辞めたわけではないし、今も教育から完全に離れたとは思っていません。先生方がどれだけ大変かも本当によくわかります」

香川モデルが実現できたら、ほかの自治体でもできるはず

前例がないことによるハードルは想像以上に高かった。森重氏は「香川モデルでのライフジャケット整備は、本当はもっと早く実現できると思っていた」と苦労をにじませる。だが、地道な活動の効果もしっかり生まれている。

例えば、前述のレンタルステーションが開設されたとき、県教委では利用を促すチラシを6月に配布した。すると配布した当日のうちに、その夏じゅうのすべての利用予約が埋まってしまったそうだ。ライフジャケット着用の必要性を感じる人が増えていることの証拠だろう。

「取り組みを褒めていただくことはよくありますが、決して私だけの力で進んできたわけではありません。ときには泣いたりブチ切れたりしながら(笑)、自治体や国に向かっても声を上げてきました。それに共感して動いてくれるたくさんの仲間がいたから、香川モデルはここまで来られたのです。先生や子どもたちにも現場でどんどん声を上げてもらって、トップにそのニーズが伝われば、活動はもっと加速できると思います」

森重氏は教員時代を振り返りながら、「水難事故を防ぐことは、教室で起きている問題への対応と似ているところがある」と語る。

「水難事故が毎年起こっている今は、マイナスの状況にあるといえます。例えば10件の事故があれば、マイナス10点になっているということ。私たちが目指すのは事故をゼロにすることですが、進度や成果は目立たず、達成しても加点になるわけではありません。でもそこにはたくさんの人の大きな努力があって、プラスのベクトルが確実に働いている。表面上の結果はゼロでも、この上向きのベクトル自体を評価する世の中になってほしいのです」

前例踏襲の気運を打破し、ゼロに向かうプラスのベクトルに力を注ぐ。ライフジャケットの普及活動に必要なこの姿勢は、教育現場のさまざまな課題との向き合い方を、象徴的に示すものかもしれない。同氏はこう続ける。

「『すべての子どもにライフジャケットを』という目標が達成できたなら、それは学校が抱えるほかの課題もきっと改善できるはずだということ。そして香川モデルが香川県で実現できたなら、それはほかの自治体でもできるということだと考えています。まずは2、3年内に達成することを目指していますが、ライフジャケットが行き渡ったらそれで終わりだとは思っていません。その経験を生かして、また新たな課題に向き合いたいと思っています」

(文:鈴木絢子、注記のない写真:chadchai_k / PIXTA)