人類学で当たり前をひっくり返す「教える・教えられる」を超えた学びとは 「専門家が知識を伝授する」近代の方法は限界?
――学習指導要領「生きる力」では主体的・対話的な学びの重要性が示されています。子どもたちの主体性をどうすれば引き出せるのかと日々考えている教育関係者も多いと思います。
森の中で暮らしていくのであれば、因数分解や外国語といったパッケージ化された知識を教えてもらう必要はありません。他方、私たちが暮らす高度に資本主義が進んだ近代社会においては、専門家集団を作って責任ある大人が知識を教えるのが一番いいやり方だと思われてきました。
しかし、学校教育が硬直化している状況がある今、これでは立ち行かなくなるという問題意識が広がってきているように思います。私自身も大学教員として約25年間、教育に関わってきました。今は制度や規制が肥大化し、その中に閉じ込められた教育のどこから手をつけていいかわからないという状況なのではないでしょうか。
近代社会で子どもが「主体的」になれない理由
――学校教育に関するものの見方を人類学の視点から“ひっくり返す”ヒントはありますか。
人類学の考え方を採用するならば、「植民地時代の宗主国や先進国は非西洋の国々や先住の人々にこれまで一方的に自らの考え方を押し付けてきたが、今は逆に先住民の思考や古いやり方に学校教育や学びに関するヒントがある」と考えたほうがいいのではないかということでしょうか。
インゴルドの『世代とは何か』では、近代社会は働き盛りの「現役世代」や「高齢者世代」「若い世代」と人々を世代で分け、上の世代が若い世代に教育を行うという構造を作り上げてきました。
しかし、その枠組みの中で学校教育が行われている限り、子どもの主体的な世界との関わりは実現できないだろうと彼は述べています。また、学校教育を通じて大人が子どもに知識を授けて理解度を深めさせるという考え方ではなく、教師と生徒が「協働する」ことの重要性を唱えています。
それはどういうことなのか、プナンを例に考えてみましょう。プナンの居住地には水道がありません。そのため一日一回老若男女、家族みんなで水浴びと洗濯を兼ねて近くの川に行きます。お母さんは洗濯をし、子どもはその横で洗濯を手伝ったり、水浴びをしたり、泳ぎの練習をしたり、泥遊びをします。おじいさんたちはそれを見守っているのです。
このように、プナンの人々は世代の区別なく結び合いながら、子どもたちも「どう泳ぐのか」「どうやると効率よく洗濯できるか」などを自然と学んでいくのです。
子どもを独立した“次なる世代”と捉え、それに対して大人が知識を伝授するという近代社会のやり方は限界を迎えている。だとすれば、それを突破するためには、単に子どもの主体性を取り戻そうとするだけでは効果はないのではと思います。
資本主義の「目的論思考」を解きほぐそう
――ただ、貨幣経済の中で生きるには、就職や学歴、それに伴う受験などを通らざるを得ないという側面があります。こうした世界で生きる中で、硬直した考えや価値観をどうすれば解きほぐすことができると思いますか。
私たちは「目的論思考」に縛られすぎているのかもしれませんね。資本主義社会を生きるうえでは仕方がない面もありますが、「お金を稼がなければ」「少しでも偏差値の高い学校に行っていい会社に就職しなければ」といった“目的”がわれわれの思考の根本にある。そのことに気づいて、それでいいのかを考えてみることが大事なのではないでしょうか。