5回目の自民党総裁選で悲願の勝利「石破茂の素顔」 "目つきが悪いんですよ" "もう後がない"

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「全然考えていなかった。東京での『田中派葬』の葬儀委員長を引き受けてくれたので、お礼に行ったとき、『すぐに銀行を辞めろ』と言われた。この驚きは忘れられません」

田中は有無を言わさず総選挙出馬を命じた。魔神の魔力に引き寄せられるように政治の道に進んだ。

26歳で田中派事務局に入る。元田中角栄秘書の朝賀昭は、「元外務事務次官の大野勝巳さんが会長を務める田中派のシンクタンクの新総合政策研究会で政策提言をまとめる仕事なんかをやっていた」と話している。

86年の総選挙に鳥取全県区から出馬した。田中派の議員がいたため、田中派入りできず、渡辺美智雄(後に蔵相)の預かりとなった。「大物政治家の長男」が看板の二世候補だが、毎回、自民党3人と社会党2人の有力候補が4議席を争う激戦区である。最下位でやっと当選した。

93年、政治家として初めて大きな選択を行った。宮沢喜一内閣不信任案に賛成票を投じる。可決後、自民党を離党した。石破の秘書だった奥田保明(元鳥取県議)が語る。

「カネのかかる選挙はダメだと痛感し、小選挙区制にと思った。『政治改革を実現する若手議員の会』を結成して共同代表となった。風が吹いていたので、無所属で選挙を戦えば有利という計算もあった」

自民党で役職停止処分を食らい、7月の総選挙は非公認だったが、トップで当選した。自民党は総裁が河野洋平(後に衆議院議長)に交代した。石破が離党の理由を述べる。

「河野さんは憲法改正を棚上げにした。改憲を行う党だから自民党員だったのに、やらないなら、いる必要がない。新生党を作った小沢一郎さん(現生活の党代表)は、あの頃、『憲法改正』『集団的自衛権』と言っていた。これだと思った」

飛び出した自民党に復党。「もう無理」

自民党離党後、改革の会、自由改革連合、新生党を経て、新進党に参加した。石破は新進党では羽田孜元首相の陣営だった。羽田の元秘書の北澤英男が回想する。

「羽田さんは政治改革で兄貴分だった。95年の党首選で『日本再生へ、決断と選択』と題する政策提言を発表したが、結論の『政治改革』の項を書いたのは石破さんです」

理論派で、「職業政治家」を目指す理詰めの合理主義者の石破は、憲法が明記する国民主権を根幹に「責任政治」の実現を説いた。

党首選は現職の小沢が羽田を破った。翌96年9月、衆議院が解散となる。石破はその日、笹川堯(後に自民党総務会長)とともに新進党に離党届を提出した。同じ渡辺系で、09年の政界引退まで自民党離党、新進党、自民党復党と、石破と同じ道を歩いた同志だ。石破が言う。

議員会館の事務所で。プラモデル好きはよく知られている(撮影:尾形文繁)

「前日、新進党の政権公約がファックスで届いて、『集団的自衛権は認めない』『消費税は21世紀まで3%を維持』と書いてあった。自分の政策と党の政策が違えば、その党からは選挙に出ない。それだけです」

10月の総選挙は小選挙区制による最初の選挙で、無所属の石破は新鳥取1区で連続当選を果たした。

最大の試練となったのは5カ月後の自民党復党であった。父親の時代から地元で石破親子を支えてきた長老の鳥取県議の山口享(すすむ)(自民党鳥取県連会長)が述懐する。

「本人の判断です。石破さんの信条として、日本の将来を考えると、自民党でなければ自分の思いが実現できない、自民党の内部を改革しながら、という考えでした」

石破本人はこう弁明している。

「新進党にいて、自民党に代わるもう一つの保守の政党はできないと思った。無所属で頑張っても世の中を変えられない」

だが、羽田の秘書だった北澤がこんな背景を明かした。

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