総合的な学習の時間を年間70時間→約150時間に
渋谷区では、2024年度4月から、区内のすべての公立小中学校で、毎日午後の授業時間を「探究学習」にあてています。
これは、文部科学省の「授業時数特例校制度」を利用したもの。具体的には、教科学習の時間を1割減らして、従来の総合的な学習の時間を年間70時間から約150時間に拡大するというものです。
義務教育を行う公立の教育課程を、これほど大胆に探究学習にシフトさせるのは全国でも初の取り組みです。しかも、全区で一斉に行われるということで、大きなニュースになったので、ご存じの方も多いでしょう。
発表になった当初から、新しい学びへの思い切った変革に対する期待の声とともに、教科学習の時間を減らして必要な内容を履修できるのか、探究の時間に何をするのか、学力は低下しないのかといった疑問も寄せられていました。
そこで、実際どんな授業が行われているのか見てきました。
訪れたのは、渋谷区唯一の小中一貫教育校、渋谷本町学園。今回は、主に中学校の授業の様子を取材しました(以下、本町学園中学校)。というのも、中学校のほうが教科ごとの履修時数が決まっているので、柔軟な対応が難しいのではないかと思ったからです。
話を聞いたのは、清野正統括校長、庄司直也副校長、福守久子主幹教諭。そして、渋谷区教育委員会事務局教育指導課の松村信之介統括指導主事です。
どんな探究プログラムを行っているのか?
渋谷区では、今回の大幅な改革以前に2020年度から新学習指導要領の施行にあわせて、総合的な学習の時間のうち20時間を使って「シブヤ未来科」という課題解決型学習に取り組んできました。
渋谷で活躍する大人など地域のリソースを生かして、地域課題に取り組むもので、子どもたちに、地元渋谷を愛し、将来渋谷を作っていく人になる“シブヤシティプライド”を育てたいという思いが込められています。
今回、それを拡大する形で、年間を通した探究プログラムが行われるようになったのですが、探究学習の1年の流れは、以下の通り。
前期に、学年ごとのテーマに沿ってグループで行うテーマ探究が行われ、そのテーマに関連した教科探究授業を並行して実施。後期からは個人による「My探究」が加わります。
本町学園中学校では、2024年度からの実施に向けて、2023年に次年度その学年を担当する教員たちが、自分たちがやりたいことをテーマにして、探究の時間の指導案を作成しました。
7年生(中1)の全体テーマは、「SDGsを学ぼう」。探究基礎の時間に、実在する企業(今年は花王)のSDGsの取り組みや、起業に向けた資産運用について学び、テーマ探究で、SDGsの中からとくに興味があるテーマについてグループで探究し、職場体験と結びつけながらSDGsを達成できる会社を考案し、My探究につなげていきます。
SDGsをテーマにしつつ、仕事をするとはどういうことか、ビジネスを通して社会貢献するとはどういうことかを大人たちの声を聞きながら考え、起業家マインドまで育む探究学習です。
取材時は、「Inspire High」というプログラムを使いながら、大人たちが何をやりがいにして仕事をしているのかを学び、そこからキャリアについて探究をしていました。
8年生(中2)の全体テーマは、「自分たちの舞台芸術を作る」というもの。探究基礎で、区長が立ち上げたNPO法人グリーンバードのゴミ拾い活動に参加して、渋谷の街をよりよくするために何ができるかを考え、探究のテーマに関連した教科学習の中で、自分たちが深く追求し、人に伝えたいことを見つけていき、それを舞台芸術で表現するために必要な準備をグループワークで行っていきます。
この学年は2クラスで、舞台芸術と英語の多読の授業が交互に行われています。取材時、舞台芸術の授業では、絵本を音で表現するという取り組みを行っていました。また、英語はAI英会話アプリ「ELSA」を使って、多読の授業が行われていました。
9年生(中3)は、修学旅行の探究やスタートアップ企業との対話を通して、自分のキャリアについて考え、進路選択につなげていきます。また、探究の結果を最終的に卒論にまとめていきます。
修学旅行は京都奈良ですが、一般的な修学旅行とは違い、訪問先は生徒主体で決めるので、京都大学や奈良にある先端技術の研究所、任天堂や地元のスタートアップ企業など多種多様。しかも、事前学習も単なる調べ学習ではありません。
デザイン思考の手法を使って、訪問先の課題を設定して課題解決の提案を行い、現地でフィードバックをもらうのです。取材時は、出発を直前に控え、グループごとに自分たちが作った提案を披露し合って、ブラッシュアップしていました。
今回、従来のシブヤ未来科の取り組みを拡大する形で、年間を通した探究プログラムが行われるようになったのですが、その最終ゴールについて「学び全体を子ども主体にすること。探究の時間だけにとどまらず、教科指導全体を問題解決型にしていきたいと考えている」と松村氏。清野校長も、「従来の総合学習の枠組みの中ではなく、学校教育を根本的に変えていく意気込みで取り組んでいる」と言います。教育改革への本気度を感じました。
教科横断型の学びで学力向上?学びへの興味関心が高まっている
一方で、学力の担保についての懸念は残ります。教科学習の時間が1割減って、定められた履修内容はカバーできるのでしょうか。
これについては、「まったく問題ない」と清野校長。むしろ、探究に取り組んだことで、英語のGTECのスコアが過去5年で最も高くなり、ほかの科目も、当初あまり学力が高くなかった学年でも、業者テストで都の平均を上回る結果が出ているのだそうです。どういうことでしょうか。
これについては、探究の時間にテーマに合わせた教科横断型の学びができること。また、英語の多読の時間が取れたり、数学の統計処理を探究的に学べたり、教科の特色を生かした探究の授業ができることで、より本質的な学びへのアプローチが可能になり、生徒の学びへの興味関心が高まっているからではないかと分析しています。
「実際、生徒たちは、探究の時間は10分休みも遊ばず、次の授業準備のために教室に集まってくるなど、学習に対して意欲的になった」と福守教諭。また、不登校気味の生徒も、探究の時間を目指して登校するようになったとか。
これは、生徒自身が学びのおもしろさを感じているからこそでしょう。教育委員会としては、今後、主体的な学びを促す授業スタイルが学力の向上にどう関係しているか、クロス統計を取って検証していくそうです。
このように、短期間の間に成果が出ている渋谷区の取り組みですが、課題もあります。
総合の時間が増えれば、教員の教材準備の負担が増えます。また、探究は、生徒だけに任せていては深まりませんが、教え込まずに子どもの力を引き出すサポートはただでさえ難しく、先生の指導力にも差が出ます。
子どもの得意不得意や学力差、学びに向かう自己調整力にも個人差がある中で、教員が1人で個々の生徒に合わせた支援を行うのは簡単ではありません。
教育委員会主導で教材準備をサポート
そんな課題を解決するために、教育委員会が準備しているのが、企業、NPO、大学など外部の人的資源のストックや、前述のEdTech教材「Inspire High」やAI学習アプリ「Qubena(キュビナ)」、AI英会話「ELSA」などの学習プログラム、生徒の学びの進捗などを管理できる渋谷区独自の「HACHIアプリ」というダッシュボードです。また、教員用生成AIも導入され、資料作りや保護者アンケートの分析などに生かされているそうです。
こういう素材を学校ごとに探して導入するのは、手間も時間もお金もかかります。教育委員会主導の強みが発揮されていると感じました。また、「校務用と教育用のパソコンが1台にまとまっているのも大きい」と清野校長。渋谷区のセキュリティが担保された通信ネットワークを使って学校外でもアクセスできるので、教員の作業の効率化につながっているようです。
ここは、ICTに強い渋谷区ならでは。前任校で、コロナ前から教育のICT化に取り組んできた庄司副校長は、「ICT化が進むことで、授業準備や校務の負担は物理的に減り、会議も短縮できる。教員の負担も減り、働き方改革にもつながっている」と言います。
実際、本町学園では、教員の残業時間が減っているそうです。また、小学校は毎週水曜日の午後、中学校も月1回は、ティーチャーズラーニングデーを取っていて、空いた時間で必要な研修を受けることもできます。生徒主体の学びへの転換は、教員の働き方を変え、教員自身の主体的学びへの意欲を喚起することにもつながっているようです。
これまでこうした改革は、モデル校から始めるというのが通例でしたが、短期間でこうした成果が上がっているのは、区全体で取り組んでいるからこそだと感じました。
そして、もう一つ感じたのは、ただ探究の時間を増やしているのではなく、何のために行うのかという最上位の目的意識がはっきりしていることが、このプロジェクトが学校にスムーズに浸透している要因ではないかということです。
とかくトップダウンで行う改革は反発を招くといわれていますが、今回の取材では、探究へのシフトという大きな方向性はトップダウンで決めたが、その方向性が主体的・対話的で深い学びという学習指導要領の目指す方向に合致していること。そして、改革を進めるうえで必要なインフラを教育委員会が提供し、各学校の実情に合わせて選択できるようにしていることも、後押しになっているようです。
松村氏は「まだまだ道半ば。動きながら試行錯誤を重ねていく」と言いますが、渋谷区の取り組みは、今後の日本の公教育の方向性を占う試金石にもなります。
渋谷区だからできたことに終わらず、よいことは他地域にも広がっていくように、これからも、その動向を見守っていきたいと思います。
(注記のない写真:すべて中曽根氏撮影)