一教員が全国の学校を回って見つけた使命
文部科学省「令和4年度学校教員統計」によれば、1年間に離職した公立小学校教員は1万5030人。離職理由で最も多いのは定年で53.3%を占め、次に多い転職が14%となっている。この数を多いと感じるか、少ないと感じるかは人によって見方が分かれるところだろう。
さる先生の愛称で知られる京都府の公立小学校教諭・坂本良晶氏は4月、デザインアプリ「Canva」を手掛けるCanva Japanに転職した。現在は、Canva Education アジア太平洋日本地域マーケティング統括マネージャーとして教育機関におけるCanva 導入の支援や研修を担当している。
ICTの徹底活用により、授業改革や定時退勤などの働き方改革を実践してきた坂本氏が、なぜ学校現場を離れ、民間企業に移ると決めたのか。その理由を尋ねると、坂本氏はこう答えた。
「僕は昨年、文部科学省の学校DX戦略アドバイザーに就任し、日本中の学校に行かせてもらい、研修を行っていました。自治体の要望を受けて行くことが多かったのですが、一教員の自分が行くことで、その地域や町を変えられるという手応えを感じました。担任の仕事は教員みんなができることですが、これは自分にしかできない仕事かもしれないと感じたのです」
では、坂本氏が感じた「自分にしかできない仕事」とは、具体的にどんなものなのだろうか。
「デジタルを活用するスキルや知識をいろいろな学校に伝えて、その地域の教育をアップデートすることです。ICTを使うことで、子どもたちそれぞれに個別最適な学びが実現し、共創できるのです。OECDが行っているPISA(OECD生徒の学習到達度調査)でも、日本の学力はトップクラスとなっていますが、日本の教育予算は低いですよね。つまり、日本の先生は少ないリソースの中で高い成果を上げています。デジタルツールを活用すれば、先生たちの教育の力がさらに拡張するはず。また、日本の教育はとてもローカライズな位置付けで、あまりよく知られていないのが実情です。日本の先生のすごさをグローバルに伝えていけるようデザインし、発信していきたいと考えています」
ICT導入に対する現場の抵抗感をほぐしたい
坂本氏は、世界の教育に触れたことで、日本の教育のよさを改めて実感したと話す。
「Teacher Canvassador(Canva認定教育アンバサダー)になり、Canvaを使った外国の授業を見る機会がありました。どれもすばらしいものでしたが、日本の先生の授業も決して引けを取りません。むしろ、より深い内容の授業にチャレンジしていますし、世界の規範になりうるのではと思いました。日本の先生がすごいのは一生懸命仕事に取り組み、クラス全体の子どもを育て上げること。また、授業研究をするのも日本ならではの風土だと思いますね」
自分自身が実践する授業に対する評価も、デジタルツール活用の発信の後押しになったようだ。
「デジタルツールを使った授業というと、どうしても低く見られがちでした。自分は国語の『やまなし』を題材に、子どもたちが協働的に学び、表現する授業をCanvaを使って行っています。日本が培ってきた伝統的な教育と、最先端のツールの融合ですね。
国語の授業研究を第一線で行っている先生方にその授業を見ていただいたところ、高い評価を受け、手応えを感じました。GIGAスクール構想で風向きが変わりましたが、学校現場にはまだICT導入に対する抵抗感もあります。それをほぐしていくのも僕のミッションだと考えています」
坂本氏は、デジタルツール導入の遅れは学校現場の課題の一つだと指摘する。昨年末に文科省が行った調査では現在も95.9%の学校が業務にFAXを使っていることが明らかになり、2025年度までに学校における押印・FAXは原則廃止となった。
「留守番電話が入って『最新テクノロジーだ!』と喜んだという話があるくらい遅れています。文部科学省が決めたFAXの原則廃止に対し、教員からの反発がありますが、変化を起こすチャレンジをしないと変わりません。新しいテクノロジーを受け入れるマインドセットは必要です。実際、働き方を変えるという点でもデジタルツールは大きなインパクトを与えることができます」
では、坂本氏は民間企業で具体的にどんな仕事をするのだろうか。
「基本的には自治体と会社のつなぎ役です。Aという自治体でCanvaを導入したいとなったら、導入のお手伝いから研修までさせてもらいます。僕はCanva Education アジア太平洋日本地域マーケティング統括マネージャーとして、アジア太平洋日本地域の教育DXを引っ張っていくポジションなので、ゆくゆくは韓国やインドネシアの先生たちと何か交流できればいいなと思っています」
自分が離れても次世代が必ず活躍してくれる
これまで学校教育でさまざまな実践を行ってきた坂本氏。学校現場を離れる怖さや未練はないのだろうか。
「現場を離れると決めたので、気持ちの区切りはついています。やはり学校現場では20〜30代の先生が、プレイヤーとして生き生きと活躍するべきですよね。僕も40歳になり、管理職になることを求められる年代になりましたが、自分が管理職になるのはちょっと違うなと思いました。誰しも得意不得意がありますが、僕は細やかな管理をするよりクリエイティブに何かを創造するほうが得意なタイプ。3年前にGIGAスクール構想が始まったとき、教務主任を打診されましたが、断りました。タブレットを使った実践をプレイヤーとしてやりたかったからです。今思えば、断って正解でした」
しかし、これまで授業改革や働き方改革を率先して進めてきた坂本氏の退職は、学校現場や同僚にとっても大きな痛手になるのではないだろうか。すると、坂本氏は笑ってさらりと否定した。
「僕がいなくなることで『頼れる人がいなくなってしまった』と誰かが感じたとしても、それは一瞬のこと。すぐに忘れますよ。もちろん必要な引き継ぎはしましたし、何より学校現場では次の世代が成長してきますから。むしろ、僕がいなくなることで次の世代が出てくるはず。2023年にグローバルティーチャーの正頭英和さんと一緒にEDUBASEというコミュニティを作ったことも大きいですね。EDUBASEでいろんな先生とつながって、みんなでチャレンジできる環境が整いました。そんな後輩の実践をエバンジェリストとして広げていくのが僕の役割なのだと感じています」
教員からの転職はリソースの最大化
民間企業から教員、そして再び民間企業へ。2度目となる今回の転職について、坂本氏は「自分のリソースの最大化」と表現する。
「公立学校のプレイヤーという強みを最大限に活かせる道だと思っています。もちろん、私立学校だからできることもたくさんありますが、公立学校の教員はリソースも限られる中、27時間と非常に多い授業数を担当します。その中でいろいろなことにチャレンジしているからこそ再現性も高いですし、多くの方に耳を傾けてもらいやすいと思うのです」
たしかに公立学校教員の転職というと私立学校を検討する教員も多いが、なぜ民間企業だったのか。これまで培った教員としての強みをどう活かそうと考えているのだろうか。
「元教員としての強みは2つあると考えています。1つは専門的な技術と知識です。英語の資料を日本語にローカライズする仕事があるのですが、それは単に英語を日本語に翻訳すればいいわけではありません。日本という国の教育の文脈に沿った言葉を選ぶ必要がありますから、これまでの知識が活かせます。もう1つの強みは人脈です。僕は“業者”になったわけですが、ありがたいことにたくさんの教員仲間、教育委員会の仲間が呼んでくれます。これは教育界でプレイヤーをしていたからこその強みだと思います」
では、公立学校のプレイヤーというリソースを民間企業でどう活かし、どのように教育のアップデートをしていくのか、そのビジョンをこう語る。
「Canvaにはまだ日本オフィスがありませんが、今どんどん成長しています。人的リソースも集まっており、僕もこれまでより大きな主語で活動できると感じています。プレイヤーである先生たちがさらに活躍できるよう、僕がチャンスメーカーになれたらうれしいですね。学校現場と先生たちの思いに添えるような展開を民間から進めたいと思っています。
具体的には学び方改革と働き方改革です。半分は自分がやりたかったことをやりたいと思っています。なぜ半分なのかと言うと、今後どんなテクノロジーが出てくるのか、それがどう教育と関わるかがわからないから。今は文部科学省が生成AIの利用に関するガイドラインに『機動的に改訂を行う』と書く時代です。それほど、先のことはわからない時代にプレイヤーとして実践を積んで民間企業に転職した僕だからこそ、学校現場にデジタルツールがフィットするような提案ができると考えています」
自分の強みを見極め、リソースを最大化する道を選んだ坂本氏。新しい道を歩き始めたばかりだが、今後のキャリアをどう思い描いているのだろうか。
「今の僕のミッションはこの会社を大きくすること。でも、それは日本の教育をよくするための手段です。僕はチャレンジし続けたいので、ずっと同じポジションにいるとは思いません。教員は定年まで続ける人が多く、離職率が低い仕事です。僕のようなチャレンジはあまりお勧めしませんが、やってみたいという人には、『まずは現場で地に足をつけて実践を続けて信用される力をつけたほうがいいですよ』と伝えたいですね」
さまざまなテクノロジーが学びや教員の仕事のやり方、さらには学校のあり方を変革する時代。学校現場とテクノロジー、学校現場と民間をつなぐ坂本氏のような存在は、今後も注目を集めるだろう。
(文:吉田渓、注記のない写真:Peak River / PIXTA)