赤福が手がける「洋菓子」はなぜ生まれたのか 餡をこねていた職人が突然ケーキを焼くことに
筆者が暮らす名古屋はあんこや小豆が大好きな土地柄。名物の「小倉トースト」をイメージしたお菓子が駅や高速道路のSAでお土産物として売られていて、どれがおいしいのか食べ比べをしたことがある。しかし、満足するものはほとんどなく、ガッカリしたことを覚えている。そもそも比較すること自体が間違っているかもしれないが、筆者の中では「あずきバターサンド」が小豆系のお菓子の中でぶっちぎりの1位をマークした。
あまりのおいしさに「あずきバターサンド」が赤福の手がける「五十鈴茶屋」で売られていることを忘れかけていた。洋菓子はいつ頃から、何をきっかけに作り始めたのだろうか。そして、「あずきバターサンド」はどのようにして誕生したのだろうか。どうしても話を聞いてみたくなり、赤福の明野工場を訪ねた。
洋菓子のラインナップ増はコロナ禍から
「2006年に『五十鈴茶屋』の五十鈴川店がオープンして、当時は駐車場が無料だったこともあって、地元のお客様がよく買いに来られていました。それで新たに日持ちのする洋菓子の種類をもっと増やそうということになり、洋菓子職人の方から技術指導を受けながら商品開発も同時に進めていました」と話すのは、赤福の五十鈴茶屋本部商品開発課の川瀬勝利さんである。
餡をこねていた人がある日突然ケーキを焼くことになったわけである。当時、すでに和菓子職人として働いていた川瀬さんもその一人だったそうだが、和菓子の職人が洋菓子を作るのは、和食の料理人がフレンチを作るようなものではないのか。
「おっしゃる通り、カスタードクリームを何度焦がしたかわかりません。餡を炊いた水蒸気で洋菓子をダメにしてしまったことも多々あります。技術も原材料もお菓子を作る環境の違いもわかっていませんでしたが、ものを作るという点では同じだと信じて作り続けているうちにできるようになりました」(川瀬さん)
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